東南アジア連合軍司令部創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:15 UTC 版)
「ビルマの戦い」の記事における「東南アジア連合軍司令部創設」の解説
1943年1月、カサブランカ会談が開かれ、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相は、同年11月頃からのビルマにおける本格的反攻に合意した。イギリス陸軍は戦力を回復しつつあり、空軍は日本軍に対する航空優勢を確立していた。イギリス軍はインパール方面および南西沿岸部から、米中連合軍はフーコン河谷および雲南方面からの反攻を計画していた。 だがビルマに関するイギリスとアメリカの戦略には根本的な不一致があった。イギリスにとってビルマの失陥は、資源供給地であるイギリス領インド帝国への直接の脅威であり、さらには日本とドイツ・イタリアとの連携をも可能にさせるものだった。またイギリスの対日反攻の目標はマレー、シンガポール、香港の奪回であり、その前段階としてラングーンの奪回が必要だった。一方アメリカにとっては、アジアへの経済的依存は限定的だった。アメリカの関心は、援蔣ルートを回復し、中国を連合国につなぎとめることに向けられていた。 8月、指揮統一を目的として東南アジア連合軍司令部が創設された。総司令官にはイギリス王族で海軍中将のルイス・マウントバッテン伯爵が就任した。チャーチルははじめ43歳という伯爵の若さを懸念していたが、経験豊かなヘンリー・パウノル陸軍中将が参謀長として補佐することになった。アメリカ側からはスティルウェルが副総司令官に就任した。司令部はインド・ビルマに加えて東南アジア全域を統括するとされ、戦略全般はワシントンの米英連合参謀本部が立案し、ロンドンのイギリス参謀総長会議を通じて伝達すると決定された。
※この「東南アジア連合軍司令部創設」の解説は、「ビルマの戦い」の解説の一部です。
「東南アジア連合軍司令部創設」を含む「ビルマの戦い」の記事については、「ビルマの戦い」の概要を参照ください。
- 東南アジア連合軍司令部創設のページへのリンク