東南アジア連合 (ASA) の設立
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「カルロス・ガルシア」の記事における「東南アジア連合 (ASA) の設立」の解説
1958年12月に対外政策の方針を発表し、その中で共産主義に対抗するために自由主義のアジア諸国を1つに団結させるという目標を公表した。1959年1月にフィリピンを公式訪問したマラヤ連邦のトゥンク・アブドゥル・ラーマン首相もまた相違点はあるものの地域協力構想を抱いており、経済文化協力の必要性と言う点で見解が一致した両首相は会談後の共同声明で他の東南アジア諸国に働きかけ、両国の外務省も実現に向けて動き出した。タイのタナット・コーマン(英語版)外相も地域協力構想に関心を示し、1959年7月にタイの作成した地域協力構想案を東南アジア諸国に回付した。1960年7月にラーマン首相がマラヤ・フィリピン・タイの3ヶ国を原加盟国とした地域協力機構設立の意思があることを公表し、原加盟国の3か国は中立非同盟諸国が加盟することを強く希望した。1961年7月31日から8月1日にバンコクでラーマン首相・タナット外相・フィリピンのセラノ外相の3者が会談し、初日の会談後に東南アジア連合(ASA)設立宣言(バンコク宣言)を発表した。ASAは東南アジアでは初の地域協力機構であり、1967年8月に東南アジア諸国連合(ASEAN)に機能を継承する形で解散した。
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