東京英和学校時代とは? わかりやすく解説

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東京英和学校時代 (1888-1891)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 21:57 UTC 版)

中田重治」の記事における「東京英和学校時代 (1888-1891)」の解説

1888年明治21年伝道者になることを志し弘前教会より預かった聖書売り歩いて旅費稼いで上京する。そして、東京英和学校青山学院神学部邦語科に入学した。同じ年に恩師本多庸一仙台メソジスト教会より東京英和学校迎えられていた。 中田入学した時の神学部長R・S・マクレイであった。他に、J・ソーパー、G・ドレーパースペンサーなどが主な教師であった。しかし、ノルトン教えていた当時キリスト教界の流行であった高等批評的な聖書勉強は、弘前教会ジョン・イングらより受け継いだ福音主義信仰には合わなかったこともあり学業には熱心ではなかった。 在学中に重治は勉学よりも伝道者として体を鍛える必要を感じてもっぱら柔術励んだ渋川流指南指導仰いだり、東京四谷渋川流道場通い初段免許状得た。後のバプテスト派指導者千葉勇五郎なども共に柔術励んだ仲間である。 中田熊谷メソジスト教会牧師だった兄久吉教会に、毎週徒歩通って兄の牧会助けた。さらに、基督青年会(現、YMCA)の活動力を入れて1891年明治24年)頃には基督青年会重鎮になり、後のメソジスト重鎮別所梅之助らと、学生伝道力を入れたまた、演説にも力を入れて土曜日神田青年会館で行われた松村介石土曜講壇聞き行ったりした。 1890年明治23年)に本多庸一アメリカドルー神学校より帰国して第2代院長就任するその頃在学中に、華族令嬢恋愛騒動起こしてしまう。恋仲になった令嬢の家に男子跡継ぎがいないので、中田神学校(東京英和学校)を辞めて帝国大学入り外交官にという条件で、跡継ぎ婿養子になる誘いを受ける。中田伝道者諦めるつもりはなかったので、駆け落ちしようとした。しかし、令嬢受け入れられず、それでもかなわぬ恋心中することをも考えたが、同窓生によって引き止められ結局恋は破局迎えた。 その騒動の後に、その華族令嬢は他に嫁いでしまう。中田失意のあまり、本多退学申し出たが、説得され学校に留まった。 その後最終学年迎えた中田は、同郷出身恩師本多期待にそむくまじと励んだが、1891年明治24年)の卒業試験結果成績不良であった教師会が開かれ中田卒業検討したが、中田受講科目半数落第点であったので退学処分決定される院長本多庸一中田救済しようとしたが、結局教師会の意見受け入れて退校処分下した

※この「東京英和学校時代 (1888-1891)」の解説は、「中田重治」の解説の一部です。
「東京英和学校時代 (1888-1891)」を含む「中田重治」の記事については、「中田重治」の概要を参照ください。

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