東京英和学校時代 (1888-1891)
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「中田重治」の記事における「東京英和学校時代 (1888-1891)」の解説
1888年(明治21年)伝道者になることを志し、弘前教会より預かった聖書を売り歩いて旅費を稼いで上京する。そして、東京英和学校(青山学院)神学部邦語科に入学した。同じ年に恩師本多庸一も仙台メソジスト教会より東京英和学校に迎えられていた。 中田が入学した時の神学部長はR・S・マクレイであった。他に、J・ソーパー、G・ドレーパー、スペンサーなどが主な教師であった。しかし、ノルトンが教えていた当時のキリスト教界の流行であった高等批評的な聖書の勉強は、弘前教会でジョン・イングらより受け継いだ福音主義的信仰には合わなかったこともあり学業には熱心ではなかった。 在学中に重治は勉学よりも伝道者として体を鍛える必要を感じて、もっぱら柔術に励んだ。渋川流の指南に指導を仰いだり、東京四谷の渋川流の道場に通い初段の免許状を得た。後のバプテスト派の指導者千葉勇五郎なども共に柔術に励んだ仲間である。 中田は熊谷メソジスト教会の牧師だった兄久吉の教会に、毎週末徒歩で通って兄の牧会を助けた。さらに、基督青年会(現、YMCA)の活動に力を入れて、1891年(明治24年)頃には基督青年会の重鎮になり、後のメソジストの重鎮別所梅之助らと、学生伝道に力を入れた。また、演説にも力を入れて、土曜日に神田の青年会館で行われた松村介石の土曜講壇を聞きに行ったりした。 1890年(明治23年)に本多庸一がアメリカのドルー神学校より帰国して、第2代目院長に就任する。その頃、在学中に、華族の令嬢と恋愛騒動を起こしてしまう。恋仲になった令嬢の家に男子の跡継ぎがいないので、中田が神学校(東京英和学校)を辞めて、帝国大学に入り外交官にという条件で、跡継ぎの婿養子になる誘いを受ける。中田は伝道者を諦めるつもりはなかったので、駆け落ちしようとした。しかし、令嬢に受け入れられず、それでもかなわぬ恋に心中することをも考えたが、同窓生によって引き止められ、結局恋は破局を迎えた。 その騒動の後に、その華族の令嬢は他に嫁いでしまう。中田は失意のあまり、本多に退学を申し出たが、説得されて学校に留まった。 その後、最終学年を迎えた中田は、同郷出身の恩師本多の期待にそむくまじと励んだが、1891年(明治24年)の卒業の試験の結果は成績不良であった。教師会が開かれて中田の卒業を検討したが、中田の受講科目の半数が落第点であったので退学処分が決定される。院長の本多庸一は中田を救済しようとしたが、結局教師会の意見を受け入れて退校処分を下した。
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