村民の教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/28 14:20 UTC 版)
岡嶋正義は知行所のある門尾村(八頭郡八頭町門尾)の領民の教育と殖産興業に力を注いだ。もともとは、当地の規律が低下しているのが発端だったという。岡嶋は同地の城光寺(現在は青龍寺)の住職と協力し、村に流布していた低俗な猥歌の類をやめさせ、文天祥から引用した「孝行和讃」を定めて村の子女にはこれを吟謡させた。 そのうえで、鳥取藩主の池田慶徳の承認を得て、安政3年(1854年)に「孝行祭」(勧善祭)を創始した。これは、毎年村で一番の孝行者を選出し、その者を祭主と定め、その家で正月の神事祭礼を執り行うものだった。神事に用いる神輿には、藩主池田慶徳直筆の掛け軸が収められた。また、村一番の孝行婦人も選び、村の子弟の教育を一年間任せた。この祭礼は年をおう毎に盛大になり、明治8年(1875年)頃まで続いた。 また、岡嶋は「砂書盤」を作って全戸に与え、文字の読み書きと算術を練習させた。上達したものは筆書を習い、村民の作品は将軍徳川家茂による講評を受けて額装され城光寺に掲げられた。こうした取り組みにより、村の子供はみな自分の名を読み書きできるほどになったという。 このほか、もっとも農事に励んだ者を村民の模範とし、これを「力田(りょくでん)」と呼んで記念する石碑を建立させた。これに該当した者として岡嶋のもとで学んだ門尾の「安次郎」の顕彰碑が現存する。「安次郎」は貧しい農民の出だったが、勤勉倹約に励み、村の庄屋を任されるまでになった。そうなってからも倹約し、村の出費がある時にはその半分を自己の負担とし、凶作の年には近隣の村々にまで備蓄米を供出したという。当初、石碑は若桜往来の三本松峠に設けられていたが、明治時代に国道29号の整備を行うにあたり移設、その後もう一度移設され、門尾地区内に設置された。
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