朱東植とは? わかりやすく解説

宇田東植

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/17 05:40 UTC 版)

宇田 東植
基本情報
国籍 韓国
出身地 日本東京都杉並区
生年月日 (1948-08-23) 1948年8月23日(76歳)
身長
体重
177 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1971年 ドラフト4位
初出場 NPB / 1972年4月28日
KBO / 1983年
最終出場 NPB / 1982年10月11日
KBO / 1984年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 起亜タイガース (2002 - 2003)

宇田 東植(うだ とうしょく、1948年8月23日 - )は、東京都杉並区出身[1] [2]の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者

在日韓国人で、韓国名は朱 東植(チュ・ドンシク、주동식)。

経歴

小学生の時は音楽部の部長を務め、NHKの子供音楽コンクールに出場するなど、音楽活動を行っていた[2]。杉並区立杉並中学校入学後に野球を始め、ポジションは三塁手であった[2]

拓大一高へ進学し、投手に転向[2]井上洋一と同期で、1964年には夏の東東京大会3回戦でノーヒットノーランを達成。

高校卒業後は1967年中央大学へ進学し、同期の杉田久雄の控えであった[2]東都大学野球リーグで通算35試合登板、9勝3敗を記録。4年秋の明治神宮大会では準々決勝で杉田の後に登板した。大学の1年先輩には末永正昭、1年後輩に榊原良行、杉田以外の同期には石渡茂がいる。

大学卒業後は1971年本田技研へ入社し、チームは都市対抗野球に出場したが、宇田の出番は無かった[2]

1971年のドラフト4位で東映フライヤーズに入団。1年目の1972年には自主トレーニング初日に「あんな速い球、受けれんわ…」とベテラン捕手の岡村浩二を驚かせたが、宇田は「僕ら新人は一日でも早く認めてもらわないといけないでしょう。だから始めからビュンビュン飛ばして目につくようにやっているんです」と計算して速球を投げた。宇田の新人離れした強心臓を見て、山根俊英一軍投手コーチは「新人の中で即戦力としてはナンバーワンだ。それに根性もいい。まったく楽しみなルーキー」と目を細めることしきりであった。田宮謙次郎監督も「一目みただけで、これは掘り出し物と感じた」と喜んだが、シーズン開幕後は主に敗戦処理が中心の起用となり、二軍ではイースタン・リーグ最優秀防御率のタイトルを獲得。

1975年8月27日太平洋戦(平和台)にジョージ・カルバーのリリーフで初勝利を挙げ[3]9月6日ロッテ戦(宮城)では初先発・初完投勝利で2勝目をマーク。

1976年は僅か1試合の登板で0勝、1977年には13試合に登板したものの2年連続0勝に終わるが、契約更改では粘って年俸は320万円と前年より20万もアップしている[4]

1978年には5月4日のクラウン戦(平和台)に先発し、山村善則から2号ソロ本塁打を浴びたものの、3年半ぶりの勝利を挙げた。同24日阪急戦(西宮)では3年半ぶりの完投勝利で2勝目を挙げたものの、7月には3連敗を喫す。

1979年には新山隆史一軍投手コーチとマンツーマンで腰の回転を研究し、これまでアンダースローでありながら腰の回り方がオーバースローに近いものであったが、アンダースローに合った腰の回転に矯正。エースの高橋直樹と見間違うほどフォームは似たが、ストレートと大小2種類のカーブに落ちるシュート・シンカーを武器に、先発7試合を含む自己最多の39試合に登板し、規定投球回もクリア。前年までの7年間で通算2勝[5]であったが、一気に自己最高の9勝を挙げ、防御率3.47はリーグ7位に入った。対戦成績では9勝中4勝が西武、後の4勝がロッテ・南海から1勝ずつ挙げたものであった。月間成績では8月に4勝、5月と9月に2勝ずつ挙げた。

5月24日の南海戦(後楽園)で勝利し2年連続で父の誕生日に勝ち星を挙げ、自身の誕生日である8月23日のロッテ戦(後楽園)ではロッテが同点に持ち込んだ後の4回から登板し、マウンドに上がる際には「今日は宇田投手の誕生日です。皆さんご声援を」というアナウンスが流れ、スタンドは沸いた[5]。2本塁打を打たれたものの、最後まで投げ切って5勝目をマーク[5]

1980年5月13日の西武戦(後楽園)では0-0の6回裏、ここまで打率.211と不振の柏原純一がチーム初安打となる4号3ラン本塁打を放って援護したこともあり、9年目の初完封勝利をマーク。一方の西武先発・柴田保光はあわやノーヒットノーランの好投も1球に泣き、試合後には「二度とこんな経験はしたくない」と悔しがった[6]

リーグ優勝した1981年5月18日の阪急戦(後楽園)で先発するも一死も取れないまま打球を受けて降板[7]するなど8試合登板に終わったが、ロッテとのプレーオフでは5戦中2戦に登板し、10月12日の第4戦(川崎)で水上善雄にダメ押しの3ラン本塁打を浴びている。全試合後楽園で行われた巨人との日本シリーズでは、同21日の第4戦で4番手に登板。1点ビハインドの6回からマウンドに上がって好投していたが、7回に先頭打者の河埜和正へ四球を与えてしまう。宇田は河野を牽制で刺そうとするが、一、二塁に挟まれた河埜は柏原のまずい対応で生きた上に二塁に進み、盗塁が記録される。河埜がさらに中畑清の遊撃ゴロで三塁を狙ったことが高代延博野選を誘って1死一、三塁の好機を作った。宇田は降板し、結局、この回の巨人は、5番手の杉山知隆から淡口憲治の適時二塁打、原辰徳の3点本塁打と山倉和博との連続本塁打で試合を決めた[8]

1982年1月、榊原良行との交換トレードで阪神タイガースに移籍[9]。中継ぎとして29試合に登板し、同年シーズンオフには残留予定であったが、1年限りで退団。

1983年には韓国プロ野球ヘテ・タイガースに移籍し、韓国名の「朱東植」の登録名でプレー。金應龍監督の下で金茂宗(木本茂美)とバッテリーを組み、同年は30試合登板・7勝3セーブを挙げて韓国シリーズ優勝に貢献。シリーズでは2勝をマークし、表彰式では宇田と木本の2人に三美福士敬章(張明夫)が近づき「良かった」「来た甲斐があった」と声をかけ、そのまま3人で泣いた[10]。韓国時代は球団の世話でアパートに入ったが、電灯の紐を引っ張ったところ電灯ごと落ちてきたほか、電気釜テレビをつけただけでブレーカーが落ちた。宇田はやりきれない気分になり、暗闇の中でしばし茫然となった[10]。入団のきっかけは張本勲から「こっち(韓国)で指導者をもとめている」と聞き、宇田自身も日本のプロの技術や経験などを教えたいという気持ちになったからであり、契約金ではなかった[10]。シリーズ前にはシリーズが終わった翌日に日本に帰ると決め、シリーズの途中にはコーチがホテルの宇田と木本が宿泊する部屋に来て、日本語で「二人ともよくやってくれた。あなたたちのおかげでチームがよくなった。」と感謝の言葉を言われて感動した[10]1984年にはシーズン中でありながら日本に帰国し、同年限りで現役を引退。

引退後はTCN制作日本ハム戦中継レギュラー解説者(1989年 - 2001年)を務め、テレビ埼玉TVSヒットナイター[11]千葉テレビCTCダイナミックナイター」、GAORA熱パ プロ野球中継」、スポーツ・アイ ESPNPOWER BASEBALL」に出演。東京ドームの日本ハム戦で顔を見ない日は無いほど密着取材し[12]、軽妙なトークが魅力的で[13]、日本ハムファンにも馴染みが深かった[14]。ライオンズがリーグ3連覇を達成した1992年9月30日の西武戦(東京D)、松坂大輔がプロ初登板で初勝利を飾った1999年4月7日の西武戦(東京D)を解説した。

2002年から2003年までは古巣・起亜で投手コーチ、帰国後はテレビ埼玉解説者(2004年 - 2006年)を務めた。四国アイランドリーグ高知ファイティングドッグスにミン・キファンを紹介したほか、李承燁が来日する際にも相談を受けるなど、日本でプレーする韓国人選手の良き相談相手でもあった。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1972 東映
日拓
日本ハム
12 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 70 16.2 20 4 4 1 1 10 0 0 11 9 4.86 1.44
1973 12 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 104 22.1 27 5 8 1 2 9 0 3 19 15 6.04 1.57
1974 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 7 2.0 2 0 0 0 0 2 0 0 1 0 0.00 1.00
1975 18 2 1 0 0 2 2 0 -- .500 223 51.0 61 5 9 0 6 13 0 0 29 22 3.88 1.37
1976 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 17 3.1 4 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0.00 1.50
1977 13 4 0 0 0 0 1 0 -- .000 157 37.2 38 4 7 0 2 9 1 0 19 19 4.54 1.19
1978 15 9 2 0 1 2 3 0 -- .400 232 54.0 68 7 8 0 4 16 0 0 35 30 5.00 1.41
1979 39 7 2 0 0 9 3 0 -- .750 555 135.0 151 15 20 3 7 34 0 0 61 52 3.47 1.27
1980 22 12 2 1 0 3 6 0 -- .333 348 84.0 89 11 14 2 1 37 0 0 35 33 3.54 1.23
1981 8 5 1 0 0 0 3 0 -- .000 114 23.2 37 3 3 1 3 9 0 0 21 16 6.08 1.69
1982 阪神 29 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 173 42.0 35 5 11 1 4 16 0 0 15 12 2.57 1.10
1983 ヘテ 30 21 3 2 7 7 3 -- .500 599 134.1 133 14 38 0 9 56 60 50 3.35 1.27
1984 18 10 4 2 6 5 0 -- .545 333 83.1 74 4 21 4 3 27 23 21 2.27 1.14
NPB:11年 171 39 8 1 1 16 19 0 -- .457 2000 471.2 532 59 85 9 30 155 1 3 247 208 3.97 1.31
KBO:2年 48 31 7 4 13 12 3 -- .520 932 217.2 207 18 59 4 12 83 83 71 2.94 1.22
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

記録

  • 初登板:1972年4月28日、対ロッテオリオンズ4回戦(後楽園球場)、9回表に6番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初奪三振:同上、9回表に有藤通世から
  • 初勝利:1975年8月27日、対太平洋クラブライオンズ後期11回戦(平和台野球場)、4回裏2死に2番手で救援登板・完了、5回1/3を1失点
  • 初先発・初先発勝利・初完投勝利:1975年9月6日、対ロッテオリオンズ後期7回戦(宮城球場)、9回1失点
  • 初完封勝利:1980年5月13日、対西武ライオンズ前期8回戦(後楽園球場)

背番号

  • 14 (1972年 - 1981年)
  • 27 (1982年)
  • 15 (1983年 - 1984年)

脚注

  1. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2000』 (『ホームラン2000年3月号増刊。日本スポーツ出版社発行)掲載の解説者名鑑を参照。
  2. ^ a b c d e f 週刊ベースボール1972年8月14日号「宇田東植(東映フライヤーズ)に30の質問」p95-p97
  3. ^ 毎日新聞1975年8月28日19面「宇田がプロ入り初勝利」毎日新聞縮刷版1975年8月p711
  4. ^ 逮捕された元日ハム投手 現役時代は契約更改で驚異の粘りも”. NEWSポストセブン. 2022年12月14日閲覧。
  5. ^ a b c 朝日新聞縮刷版p779 昭和54年8月24日朝刊17面「この日の顔 好救援で五勝 誕生日を飾る 日本ハム宇田投手
  6. ^ 日刊スポーツ1980年5月14日
  7. ^ 岡部憲章 81年最優秀防御率に輝いた原辰徳の同級生/プロ野球1980年代の名選手
  8. ^ 読売新聞1981年10月22日17面
  9. ^ 読売新聞1982年1月24日17面「宇田(日ハム)と榊原(阪神)交換トレード」読売新聞縮刷版1982年1月p865
  10. ^ a b c d 『海峡を越えたホームラン―祖国という名の異文化』関川夏央著、双葉社、1997年1月1日、ISBN 4575710962
  11. ^ 1999年頃まで。TCN配給の他、テレビ埼玉自社制作の西武ライオンズビジターゲームにも出演。
  12. ^ 逮捕された元プロ野球選手 韓国で投手コーチし人生狂ったか
  13. ^ ☆Strike Zone☆ 韓国プロ野球応援! 韓国プロ野球トークライブ!”. www.strike-zone.jp. 2022年12月14日閲覧。
  14. ^ 日本ハム球団の歴史に泥塗った! OB投手が風営法違反で逮捕される (2012年11月10日) - エキサイトニュース”. web.archive.org (2021年2月14日). 2022年12月14日閲覧。

関連項目

外部リンク


朱東植(チュ・ドンシク、在籍年度1983 - 1984)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:11 UTC 版)

起亜タイガース」の記事における「朱東植(チュ・ドンシク、在籍年度1983 - 1984)」の解説

日本名宇田東植日本ハムファイターズ阪神タイガース在籍していた在日韓国人投手

※この「朱東植(チュ・ドンシク、在籍年度1983 - 1984)」の解説は、「起亜タイガース」の解説の一部です。
「朱東植(チュ・ドンシク、在籍年度1983 - 1984)」を含む「起亜タイガース」の記事については、「起亜タイガース」の概要を参照ください。

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