本堂城下町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 20:13 UTC 版)
本堂城より1.5kmから2km東の湧水地帯(扇状地扇端部)には城下町があり、本堂町、後町、仲町の町名が今も残っている。平城(本堂城)を構築した際に整備したものとみられ、その位置は山城(元本堂城)と古代城柵遺跡の所在する払田柵跡を結ぶ道路のほぼ中間にあたる。道路の両側に向き合って家がならんでおり、散村形態の卓越する当地方にあって長さ700m弱の街村の形態をなす。『本堂城廻絵図』によれば、この3町および田町から成っていたことがわかり。その規模はおよそ100戸であった。集中度からいえば明らかに強制的移住によるものと考えられるが、江戸時代のように商人町・武家町・寺社地などの区別はなく、当時の当地方小領主の支配地域における兵農分離の進んでいない状況を傍証する。ただし、「後町」などの名称より集住した人間のあいだに階層的区別があったことはうかがわれる。 慶長19年の『本堂城廻絵図』によれば、周辺の川口・今宿・飛沢なども「町」と記されており、これは自然村落を「町」と称したもので都市計画をおこなったものではないが、本堂城下町とは、川口町道・今宿町道・飛沢町道などで結ばれていた。他に、長信田道・元本堂町・若林山道などがあり、いずれも城下町から放射状に道路が領内要所に向かってのびていた。 関ヶ原の戦いののちの慶長5年(1600年)12月、本堂忠親の子本堂茂親は国替えを命ぜられ、慶長7年(1602年)佐竹氏の入部にともない交代寄合として常陸国新治郡志筑8,500石に転封となり、本堂城は廃城となった。旧城下町はその後、江戸時代を通じて「本堂城廻村」を称している。今日では純農村となっているが、本堂城回集落には現在でも疫病を防ぎ安寧を祈る鬼神であるショウキ様が2ヶ所道祖神として祀られ、毎年新藁で衣替えがなされる。
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