暴力行為の継続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 06:43 UTC 版)
「華僑虐殺事件 (バタヴィア)」の記事における「暴力行為の継続」の解説
10月11日、ファルケニール総督は将校らに要請して軍を統率し略奪を止めさせようとしたが、上手くいかなかった。2日後、他の民族集団を粛清に協力させるための報奨金として、兵士に差し出されたあらゆる中国人の首に対してダカット金貨2枚を報酬として設定した。その結果、不法な集団が最初の襲撃を生き延びた中国人らを狩り出し、発見した華僑を報酬目当てで殺害した。オランダ人はバタヴィアの別の場所で先住民と働いていた。10月14日、オランダ軍部隊を増強するためにブギス族とバリ島人の擲弾兵が送り込まれた。10月22日、ファルケニール総督は全ての殺害行為を中止するよう求めた。彼は長い文書において暴動の責任を完全に中国人の反逆者に負わせ、暴動の指導者を除く全ての中国人に恩赦を与え、指導者の首に対しては最大レイクスダールデル(英語版)(オランダの銀貨)500枚の賞金を設定した。 城壁の外側では中国人の反徒とオランダ軍の衝突が続いていた。10月25日、2週間近くにわたる小競合いの後、Cadouwang(現在のタンボラ区(英語版)アンケ (Angke))に500人の武装した中国人が接近したが、クリストフェル・モル大尉 (Ridmeester Christoffel Moll) 、士官(コルネット(英語版))のダニール・ヒッツ (Daniel Chits) とピーテル・ドンケル (Pieter Donker) が指揮する騎兵によって撃退された。翌日、1594人のオランダ人と先住民の兵からなる騎兵隊がサラパジャン (Salapadjang) 砂糖工場の反逆者拠点へと進軍し、まず近くの森に集結してから反逆者らのいる工場に火を放った。ボエジョン・レンジェ (Boedjong Renje) の別の工場でも別の部隊が同様に放火した。接近するオランダ部隊を恐れて、サラパジャンの件の4時間後に中国人らはメラユ村 (Kampung Melayu) の砂糖工場へと後退した。だが、ヤン・ヘオルヘ・クリュメル (Jan George Crummel) 大尉の部隊によってこの拠点も陥落した。中国人らを打ち負かしクアル (Qual) を奪還した後、オランダ軍はバタヴィアに帰還した。その一方で、敗走した中国人らは西側をバンテン王国の部隊3000人に塞がれ、ジャワ島北岸に沿って東へ向かった。10月30日までに中国人らがタンゲランに到着したとの報告が届いた。 11月2日にクリュメル大尉に停戦命令が届き、彼とその部下たちはカドワン (Cadouwang) に50人の分遣隊を残してバタヴィアに帰還した。彼が正午に到着すると、城壁にはもう中国人は残っていなかった。11月8日、都市の警備を強化するためチルボン王国から2000人から3000人の先住民の部隊が送り込まれた。略奪は少なくとも11月28日まで継続し、最後まで残った先住民の部隊が引き上げたのは11月の終わりのことだった。
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