暗記以外でも届けられた遺書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 19:20 UTC 版)
「山本幡男」の記事における「暗記以外でも届けられた遺書」の解説
山本の遺書は暗記で日本へ届けられたというエピソードがしばしば紹介されるが、実際には暗記以外の手段も用いられている。一例として暗記担当者のうちの何人かは帰国時、遺書の写しを衣服に隠して身に付けたり、遺書の写しを丸めたものに糸を巻きつけて糸巻に偽装して所持品検査をやり過ごすなどして、収容所へ逆戻りになることを覚悟で日本へ持ち帰ることに成功している。 また、1955年に社会党訪ソ団7名がハバロフスクの収容所を訪れた際、俘虜の1人が山本の遺書の写しを、訪ソ団員の1人である当時の衆議院議員・戸叶里子に託しており、戸叶は帰国の翌日に山本モジミにこれを届けた。暗記担当者の中に戸叶に接した者はおらず、山本は遺書を確実に日本へ届けるためにあらゆる手段をとったと見られている。この事実は、山本を綴ったことで知られる後述の書籍『収容所から来た遺書』では伏せられているために知名度が低いものの、その原典である『ラーゲリからの遺書配達人』(『文藝春秋』掲載)には述べられており、山本の次男である山本厚生の著書『ひと裁ち折りと山本厚生の世界』、フジテレビのテレビ番組『奇跡体験!アンビリバボー』で山本が取り上げられた際にも触れられている。また当時の『朝日新聞』『毎日新聞』でも報道されており、暗記担当者の1人は帰国直後、先に帰国したシベリア抑留の同志から、すでに遺書が日本へ届いていることを聞かされたという。それでも収容所での苦境の中、遺書を暗記することが彼らの生きる支えとなっていたことは確かである。
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