昭和金融恐慌でのエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 05:27 UTC 版)
大蔵次官在任中の1927年3月に、当時不況で資金繰りに困窮していた東京渡辺銀行の経営問題に絡み、当時の片岡直温大蔵大臣の失言を誘発してしまったことで知られる。 同月14日、衆議院予算委員会にて審議の始まる直前、当日の決済資金の工面に困り果てた東京渡辺銀行の渡辺六郎専務らが大蔵次官だった田のもとに陳情に訪れ、「何らかの救済の手当てがなされなければ本日にも休業を発表せざるを得ない」と説明し救済を求めた。これを受けて、田は片岡蔵相と対応策を相談すべく議場に赴いたが、既に審議入りしていたため直接面会できず、事情を書面にしたためて片岡蔵相に言付けた。一方、田から救済策を引き出せなかった東京渡辺銀行側は、大蔵省からの助力を得る見込みが立たなかったことで改めて金策に走り、第百銀行から資金を手当てすることに成功して当日の決済を無事に済ませ、その旨を大蔵省にも伝えたが、このことはすぐには田に伝わらなかった。このことについては、相談に訪れた段階で、渡辺専務側は救済を求める意図で陳情したのに対し、田ら大蔵省の側では事前の調査で東京渡辺銀行の経営状態が悪いことを把握しており、休業の報告に来たものと理解する「誤解」があったという。 田が東京渡辺銀行の金策がついた旨の報告を受けたのは議場から大蔵省に戻ってからのことであったが、片岡蔵相への言付けを訂正する時間はもはやなく、片岡は田からの書面をもとに、予算委員会での答弁の中で「渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と発言してしまう。この片岡蔵相の失言は昭和金融恐慌の引き金となり、取り付け騒ぎが発生してしまった。
※この「昭和金融恐慌でのエピソード」の解説は、「田昌」の解説の一部です。
「昭和金融恐慌でのエピソード」を含む「田昌」の記事については、「田昌」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から昭和金融恐慌でのエピソードを検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 昭和金融恐慌でのエピソードのページへのリンク