日本における去勢刑(羅切刑)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 18:50 UTC 版)
「宮刑」の記事における「日本における去勢刑(羅切刑)」の解説
通説では日本では宮刑を取り入れなかったとされているが、『日本書紀』にある「官者」という言葉には宦官の意味もあることから、雄略天皇の頃には少なくとも一時的には行われていたのではないかとする説がある。その後の日本における宮刑の記載例としては、『建武式目』の記述があり、その方法は『後太平記』に「男はヘノコを裂き(陰茎や陰嚢を切取る)」、「女は膣口を縫い潰して塞ぐ」と記録されている。実際の執行例としては『皇帝紀抄』巻七に、土御門天皇の代、1207年(承元元年)に法然の弟子である法本坊行空と安楽坊遵西が、女犯の咎で羅切の刑に処せられたとの記録がある(承元の法難)。ただし、この「羅」は「頸」の誤写であり、実際には斬刑だったとも言われる。 その他著名な伝説としては、本州西部の有力守護大名であった大内義隆の遺児、歓寿丸の逸話が挙げられる。義隆が家臣陶晴賢の謀反によって、1551年(天文20年)9月1日、長門国大寧寺に攻め滅ぼされたとき、残された歓寿丸は、女装して逃げ山中に潜伏したが、翌年捕らえられて殺害されたという。その際、歓寿丸本人すなわち男児である証拠を求めた陶軍が、遺体の男根を切除して持ち去ったとする伝説があり、山口県の俵山温泉近くにあるその現場には、歓寿丸を哀れんだ村人によって、麻羅観音という寺が造られている。 日本語の俗語で、陰茎または男性器の切断を「羅切」とも言うが、必ずしも宮刑と同義ではない。
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