新軍創設の功労者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:39 UTC 版)
医師の家系に生まれた。家庭の窮状から弓馬を習うこととし、1878年(光緒4年)に正定鎮標学兵隊に入学した。その後、山海関に赴任している。1885年(光緒11年)、天津武備学堂に入学して、3年後に優秀な成績で卒業する。山海関に戻って督弁随営砲隊学堂に任命された。 1894年(光緒20年)、王士珍は直隷提督葉志超に随って朝鮮に赴任する。日清戦争では、王は平壌防衛戦などで最前線に立つ。王は果敢に日本軍に挑むと同時に、様々な献策や救援要請を行ったが、葉からは尽く拒否された。挙げ句に葉は戦意を喪失して逃亡し、平壌は落城してしまう。王は敗軍を可能な限りまとめて退却した。 1895年(光緒21年)12月、袁世凱が天津小站で新軍の編制を開始する。王士珍は督操営務処会弁兼講武堂総教習に任命され、さらに工程営管帯、工兵徳文堂監督も兼任した。王は高い訓練指導力を発揮して成果をあげ、袁から信任を受けるようになった。袁世凱が山東巡撫に任命されると、王は参謀全省軍務となる。また、日本へ軍事訓練の視察に赴いたこともあった。1900年(光緒26年)、王は義和団の乱の鎮圧に従事した。その一方で、王は山東省内の黄河が決壊した際に、工兵隊を率いてその被害を最小限に抑えている。さらに開墾を行って被災地復興にも貢献するなど、民政でも活躍した。 1902年(光緒28年)春、保定に北洋軍政司が設置されると、王士珍は総参議に任命された。さらに北洋常備軍が編制されると、王は左翼翼長に任命された。その後も、軍学司正使、軍政司正使、北洋軍第2鎮統制官、第6鎮統制官などを歴任した。この間に、王は北洋常備軍の訓練、規律の整備に尽力している。1906年(光緒32年)冬、王は新設の陸軍部で右侍郎に任命された。翌年、江北提督兼塩漕事務に就任した。
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