新軍の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/04 14:32 UTC 版)
革命の計画についての捜査が進むにつれて、武昌駐屯の新軍は清朝官憲に逮捕される危険が迫っていた。文学社の蒋翊武は直ちに決起することを決めたが、その計画は湖広総督瑞澂に漏れた。瑞澂は決起の鎮圧を命じ、10月9日に漢口で同盟会の党人20名が逮捕されて武昌に送られ、10日に武昌でも73名が逮捕され、10日朝には軍籍の彭楚藩、劉復基、楊宏勝の3名が総督公署の前で斬首に処された。「党員名簿」が官憲の手に入ったという噂もあり、新軍内部は逮捕処分されるおそれのため、非常な動揺が起こった。 10月10日夜9時、金兆龍と程定国という2名の革命派が就寝命令違反のトラブルから上官の陶啓勝を射殺。この混乱に乗じ、少数の爆薬をもとにして熊秉坤と工兵中隊が湖広総督の清朝の警備隊に対して決起した。蔡済民など第29大隊の兵士がそれに応えて合流し、武昌城内に向かった。南湖の騎兵が同じ頃に城外から押し寄せ、蛇山の高所から総督公署に大砲を撃ち込んだ。激しい戦闘の末、総督・瑞澂は漢口の租界へ逃げ、第八鎮統制・張彪も軍艦で総督の後を追った。翌日11日の正午には武昌全城が新軍の手に入った。総督が逃亡したため、清軍の指揮統制は崩れた。10月10日夜から11日正午までに「500人以上の満州兵が殺され」、「300人以上が捕らえられた」。
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