新婦人協会の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:14 UTC 版)
卒業後は愛知県内の訓導として勤務したが病気のため退職。1917年(大正7年)に名古屋新聞(現在の中日新聞)の記者となった。1919年(大正8年)に平塚らいてうらと日本初の婦人団体新婦人協会を設立。女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開。 1921年(大正10年)に渡米しシカゴやニューヨークで働きながら、アメリカ合衆国の婦人運動や労働運動を見学し、アリス・ポールやキャリー・チャップマン・キャットとも面会する。 1924年(大正13年)に「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。男子普通選挙が成立した1925年(大正14年)には同盟会を「婦選獲得同盟」と改称し、政府・議会に婦人参政権を求める運動を続けた。1924年(大正13年)には国際労働機関(ILO)の職員となり、女性の深夜労働などの実態調査を行った(1927年(昭和2年)辞職)。 1930年(昭和5年)に「第1回婦選大会」を開催。同年に婦人参政権(公民権)付与の法案が衆議院で可決されるが、貴族院の反対で実現に至らなかった。他にも母子保護や、生活防衛などを目的とした様々な運動に関わった。東京婦人会館の評議員を務めるのは1937年(昭和12年)前後である。
※この「新婦人協会の設立」の解説は、「市川房枝」の解説の一部です。
「新婦人協会の設立」を含む「市川房枝」の記事については、「市川房枝」の概要を参照ください。
- 新婦人協会の設立のページへのリンク