文芸への関心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 00:06 UTC 版)
幼少の頃より藩邸においてエリート教育を受け、文武・諸芸に優れた才能を示した。儒学教育は13歳から受けており同藩の儒官である荻生徂徠やその高弟服部南郭に学び、書は細井広沢に師事した。その他に岡島冠山、黄檗僧の悦峯道章などに影響され、中国の文雅を身につけた。 また、15歳で『文実雑話』を、その後に『青楼夜話』を著し、また『青楼十牛図』を画いたと伝えられている。いずれも現在まで伝わっていないがその早熟ぶりが窺われる。 8歳ころにはすでに狩野派の画法を学んでいたが、12歳にしてこれを形骸化していると批判し、渡辺秀石門下で長崎派の英元章(吉田秀雪)に師事し中国画法を学ぶ。。祇園南海と交流があり画法を受け画譜を贈られている。その後独学で元明から将来した古書画や『芥子園画伝』などの画譜を模写し画論を学び、彩色精密な写生画を修めた。 将軍綱吉の代が替わり吉保は失脚のまま歿していったが、将軍吉宗期には享保の改革に伴う幕府直轄領の再編において柳沢氏は大和国郡山藩に転封される。このころ、里恭は弱冠20歳で自伝的随筆『ひとりね』(1724年)を著しているが旺盛な好奇心と探求心、また色香に通じていた様を窺い知ることができる。 里恭は博学にして多芸多才であり武芸百般に通じていた。文は詩書画の以外に篆刻・煎茶・琴・笛・三味線・医術・仏教など、武は剣術・槍術・弓術・馬術・指揮法などに秀でており、人の師なったのは16項目もあったとされる。その万能は天才的であった。国学にも通じており本居宣長や上田秋成とも交流があった。
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