政所・大江広元と二階堂行政の子孫
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「吾妻鏡」の記事における「政所・大江広元と二階堂行政の子孫」の解説
大江広元の筆録からと思われるものには、同じ文章を分割したと思われる承元3年(1209年)10月15日条と建保2年(1214年)5月7日条があり、二階堂行政では文治2年(1186年)10月3日条などがある。顕彰した部分も確かに見られる。例えば大江広元では既に見てきた守護地頭の献策などである。ただし既に「「守護地頭」の設置」で見てきたとおり、これは大江広元の顕彰ではあっても編纂者の手による曲筆とは言い切れない。従って顕彰記事の存在だけから広元の子孫の編纂への関与をいうことは出来ないが、これも先にも触れたとおり北条泰時が大江広元時代の記録を広元の孫の長井泰秀に送ったという記事があり、長井氏に伝えられたその記録が『吾妻鏡』編纂に利用されたであろうことは大正時代の頃から和田英松・八代国治らによって指摘されている。 二階堂行政の子孫については、その子二階堂行光の顕彰記事に元久元年(1204年)9月15日条があり、行光が白河院の古事を語り「相州殊に御感」という。そのとき行光が語った古事は『十訓抄』1の24話にあるものと同じであることを五味文彦は指摘した。記事そのものが後付の創作である可能性はある。ただし五味も認める通り『十訓抄』の編者同様に行光もその古事を知っていたのかも知れず断定は出来ない。また『金槐和歌集』から収録したと思われるものに八代国治が指摘した建保元年(1213年)12月19日条から翌20日条がある。二階堂行光と三代将軍源実朝の和歌のやりとりで、将軍実朝が「再三御感に及ぶ」という下りである。しかしその記事を『吾妻鏡』に加えたことに行光顕彰の意図が指摘出来ても、事実と相違する曲筆という訳ではない。三善康信の場合と比べれば非常におとなしいものである。とはいえ、二階堂氏は『吾妻鏡』の記事のベースと想定される筆録の著者に多数現れることと合わせて考えると、その編纂への関与は濃厚と推測される。
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