政府機能の疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 05:51 UTC 版)
「フレンスブルク政府」の記事における「政府機能の疎開」の解説
1945年4月、総統アドルフ・ヒトラーはベルリンの総統官邸地下壕で作戦の指揮を行っていた。ベルリンは既にソ連軍の攻撃下にあり、包囲・陥落も時間の問題であった。親衛隊全国指導者・内相のハインリヒ・ヒムラーはかねてから画策していた首都機能の移転を実行するべく、その地を戦災被害が比較的少なかったドイツ北部のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に決めていた。 4月20日の総統誕生日にヒトラーは国防軍最高司令部(OKW)、陸軍総司令部(OKH)、空軍総司令部(OKL)(ドイツ語版)、そして閣僚の避難を許可し、ドイツが戦線によって分断された時に備えて、ドイツ北部にいるドイツ軍の統帥を海軍総司令官カール・デーニッツ海軍元帥に委任した。ヒトラーから全権を委任されたデーニッツはベルリンを脱出し、キールに近いオイティン湖のほとりプレーン(Plön)の海軍総司令部(OKM)に移り、そこで、海軍全般の指揮の他に北ドイツでの難民の輸送、補給作業を指揮することになった。 4月21日、ヒトラー、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス、ナチ党官房長マルティン・ボルマンを除く主な閣僚も避難し、OKW総長ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥、OKW作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将を含む国防軍最高司令部・陸軍総司令部の一部はデーニッツに合流するためプレーンへ、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング帝国元帥を含む空軍総司令部と国防軍最高司令部・陸軍総司令部の大半、総統官房長官ハンス・ハインリヒ・ラマースはヒトラー総統専用のベルクホーフ山荘のあるオーバーザルツベルクへ疎開した。避難した閣僚の多くはオイティンに移り、4月23日には移転初の閣僚会議が地方議会議事堂で行われた。閣僚会議の議長は閣僚の最年長で財務大臣のフォン・クロージク伯爵が務めている。
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