政党”全ては国のために”
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 21:36 UTC 版)
「コルネリウ・コドレアヌ」の記事における「政党”全ては国のために”」の解説
準軍事組織が禁止された後、軍団は政党に改組され、選挙ではTotul Pentru Țară(「全ては国のために」)として立候補した。その後まもなく、コドレアヌは東ヨーロッパにおけるルーマニアの同盟、特に小協商とバルカン条約を軽蔑していると公言し、48時間後に、ルーマニアはナチスドイツとファシストイタリアと同盟することになると宣言した。 1937年の選挙では、政府が選挙違反を利用することを防ぐ目的で国民農民党と選挙協定を結び、軍団は15.5%の得票率を得た。過半数の獲得には失敗したものの、コドレアヌの運動は当時、ルーマニアで3番目に人気があり、1937-1938年に人気が上昇した唯一の政党で、断然最も人気のあるファシスト集団であった。軍団は、新たに結成された従属運動や復活した国家キリスト教防衛同盟を好んだカロルによって政治連合から排除された。 クザはオクタヴィアン・ゴガと彼の属するPNCとともに反ユダヤ主義政権を作り上げ、オクタヴィアン・ゴガは第37代ルーマニア王国首相に就任した。コドレアヌと2人の指導者は仲が悪く、軍団はコーポラティズムを採用することによって当局と競合し始めた。並行して、ニコラエ・イオルガが「ユダヤ人問題」の解決策としてルーマニア人による商業を主張したことから、その助言に従って、私企業の設立を信奉者に促した。国民キリスト教党として統一された新政府同盟は、軍団から多くを借りた青いシャツの準軍事部隊-Lăncieri-を自らに与え、ユダヤ人迫害の公式キャンペーンを開始し、鉄衛団に対する国民の関心を取り戻そうとした。多くの暴力の後、コドレアヌはゴガに接触し、1938年に予定されていた選挙で自分の党が選挙活動から撤退することに同意し、いずれにせよ、政権には実行可能な解決策がなく、消耗してしまうと考え、一方で、可能な一党制の統合に意欲を示すことによって王の権威主義から利益を得ようと試みていた。
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