指し将棋とは? わかりやすく解説

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指し将棋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 05:01 UTC 版)

伊藤看寿」の記事における「指し将棋」の解説

四代大橋宗与八段持ち駒 歩 ▲持ち駒 なし伊藤看寿魚釣り底歩 享保8年1723年)に父と死別、のちに兄・宗看の養子となる。元文元年1736年)に四段として御城将棋初出勤。翌元文2年1737年)の囲碁・将棋席次争い結果、看寿は9席とされている。 既に8年前の享保13年1728年)より実兄であり養親でもある宗看が名人位を襲っており、宗看は大橋本家継いでいた兄の宗桂と、大橋分家当主大橋宗民(四代大橋宗与)と競ううになる宗桂の手合は元文元年の初対局時には右香落とされであったが、寛保2年1742年)には平香交わりの手となっている。寛延2年1749年)の平手戦では敗れたが香落とされ戦で2勝し、宝暦3年1753年)には平手の手となっている。このとき宗桂は七段であったことから、この年に看寿も七段に昇段した推測されている。この間延享2年1745年)に、八段であった宗与と右香落とされ対戦して勝利したが、この時に金底の歩名手放ち、「魚釣り底歩」として後世称えられた。 宝暦4年1754年)に宗桂との平手戦で勝利し八段となる。この時点次期名人候補とされ、宝暦5年1755年)『将棋図式将棋図巧)』を幕府献上している。宝暦8年1758年)には子の二代看寿が誕生する宝暦9年1759年)には甥の大橋印寿(後の九代大橋宗桂)と飛車落ち対戦して敗れている。 宝暦10年1760年8月23日死去同年7月22日に兄の看恕が死去し実兄養親の宗看も翌11年1761年4月29日死去していることから、流行病伊藤家襲ったという推測もされているが、死因詳細不明である。法名は宝車院看寿常銀日龍。 没後名人位を贈られる将棋指しとしての評価としては『将棋営中日記』の「悪力にして無理押しつけ候場合」というものが残されている。また、在野棋客との右香落ち筋違い角試みた対戦例もある。

※この「指し将棋」の解説は、「伊藤看寿」の解説の一部です。
「指し将棋」を含む「伊藤看寿」の記事については、「伊藤看寿」の概要を参照ください。

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