抵抗戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:47 UTC 版)
18世紀以降、南下政策を進めるロシア帝国は北コーカサスに達し、その過程で北カフカースのムスリムは、異教徒ロシア人に対する抵抗戦争を始めていた。 1834年、全山岳ダゲスタンがシャミールの支配下に入り、1840年、彼はチェチェンのイマームともなった。当初、シャミールは、権力が確固たるものとなるまでロシアとは中立的な立場を取り、1843年末になって初めて行動を開始した。 イマーム国の首都、アフリゴ防衛戦は数ヶ月間続き、ムスリム側は投降する意思を見せず、ロシア軍側も疲労してきた。そこで、ロシア軍司令官パーヴェル・グラッベ中将は、シャミールと交渉に入ることにし、ムスリム側全員の生命の保証と交換に、シャミールの長男ジャマルディンを人質に差し出すことと、シャミール自身の投降を要求した。シャミールは交渉を拒否し、グラッベの部隊は市内に突入した。アフリゴ市内の女性達は防衛側の兵力を多く見せるために男装し、夜間に破壊された陣地の修復に当たった。数日間の戦闘の後、シャミールは息子を引き渡して、無用な流血を避けることに決めた。息子を引き渡す際、グラッベはシャミール自身の投降も要求したが、シャミールはこれを拒否した。戦闘が再開し、アフリゴは陥落したが、シャミールが率いる小部隊はチェチェン領内に撤収することができた。 長男ジャマルディンは、ロシア軍の手に渡り、ロシアに連れ去られた。ジャマルディンは、ロシア皇帝の意思に従い第1モスクワ幼年団、後にアレクサンドロフ幼年団に入った。ジャマルディンはロシアで15年間過ごし、1855年になって初めて父シャミールと再会することになる。
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