抗議活動は帝国全土へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 04:19 UTC 版)
「ツァーベルン事件」の記事における「抗議活動は帝国全土へ」の解説
11月28日に、ツァーベルン議会は皇帝、ベートマン=ホルヴェーク、ファルケンハインに電報を送り、市民の恣意的な逮捕に抗議した。2日後には、社会民主党の集会が3千人の参加者を集めてミュールハウゼンで開催され、兵士の違法行為に対してデモを行った。決議ではエルザス州を軍事独裁下にあるとして、必要ならストライキに訴えてでも現状を打破することを要求した。12月2日、シュトラースブルクでは、エルザス=ロートリンゲンの数都市の市長が軍の暴政から市民を守るための手段を採ることができるよう、皇帝に訴えた。 憤慨の波は帝国全体へ広がった。軍のやり方に対する嫌悪感が広がっていった。社会民主党で特にそうであった。12月3日、社会民主党議長は党の全組織に抗議集会を呼び掛け、その4日後にはドイツの17都市で集会が開かれた。ベルリン、ブレスラウ、ケムニッツ、デュースブルク、デュッセルドルフ、エルバーフェルト、ケルン、ライプツィヒ、ミュールハイム・アン・デア・ルール、ミュンヘン、ゾーリンゲン、そしてシュトラースブルクなどの都市で、社会民主党は軍の横暴な支配に対してデモを実施し、ベートマン=ホルヴェークとファルケンハインの辞任を要求した。ツァーベルン事件をきっかけに、軍国主義に反対し、帝国内のマイノリティの権利を擁護するため、市民運動が燃え上がったのである。 それでも帝国政府は軟化しなかった。ヴィルヘルム2世は、当分は問題を拡大させないため、12月5日ツァーベルンの部隊をドナウエッシンゲンから一時的に移動するように命じた。翌日と翌々日には、兵士たちはオーバーホーフェンとビッチェの軍訓練場へと移動していった。 12月11日、シュトラースブルク軍事法廷で、公然とフォルストナーの侮辱発言の正当性を主張したとして、ツァーベルンの初年兵二人に対し、それぞれ3週間と6週間の拘禁を宣告した。シュトラースブルク警察は12月17日、第15軍団総司令官の求めに応じ、クローマー&シュラック社製の蓄音器で記録したレコードを押収した。そのレコードには太鼓の連打音とともに会話が記録されており、それによってツァーベルン事件で起こった出来事が明らかになった。さらに軍はドイツ人将校を侮辱罪で告訴した。これにより、住民の抗議活動は終息に向かった。
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