技術的・商業的敗退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:31 UTC 版)
「ダイハツ・Bee」の記事における「技術的・商業的敗退」の解説
1951年9月に公募で車名を決定、翌10月から市販を開始された。価格は55万円であったという。 さっそく自動車不足に悩んでいた関西のタクシー業界での試用が始められたが、ここでBeeの致命的なウィークポイントが露呈した。ウィッシュボーン独立式リアサスペンション車の重要パーツである、伸縮式ドライブシャフトのスプライン部脆弱性であった。スプラインシャフト径が細すぎたのが仇となり、発進時や悪路でこのパーツがねじ切れて立ち往生する破損が多発、ダイハツ側はメンテナンスのフォローに追われた。シャフトを太くするのが根本対策であったが、それ以前に製造が終了してしまった。 また前輪の支持・操向機構に、当時のオート三輪に用いられていた通常のボトムリンク式レイアウトでなく、リーディングアーム的な要素を加えた大掛かりなボトムリンク構造を採用したが、これは乗り心地を良くしたものの、車の回転半径は極めて大きなものとなったという。 自動車としての乗り心地は悪くなかったというが、耐久性という面で当時の小型乗用車マーケットの大部分を占めたタクシー使用に不適なことが判明し、1952年までに少数が製造されたのみで製造中止となり、それ以上の市販向け発展はなかった。 数年をおかずして関西のタクシー市場からは姿を消し、1956年頃にはダイハツ製オート三輪と共に同社製品の宣伝キャラバン隊に加わっている記録が見られたが、その後はダイハツが保管していた1台を除いてほぼ消息不明であった。 ダイハツ保管車の赤色の1台は、ダイハツ本社に併設されている、ヒューモビリティワールドに展示されている。1980年代以降、人知れず保管されていた合計3台の所在が明らかになり、うち1台は熱心な愛好家の手で走行可能状態に復元、2021年時点で徳島県のオーナーの元でナンバープレート付きの公道走行可能な状態になっている。
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