技能賞の常連
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入幕2場所目となる同年11月場所では西前頭16枚目で9勝2敗の好成績を挙げ、10勝1敗で幕内最高優勝の横綱・羽黒山政司に次ぐ星をあげる。この場所から三賞制度が始まり、栃錦も「何かもらえるかと思った」と話していたが、新入幕で同じ9勝の出羽錦忠雄に殊勲賞が贈られ、栃錦には何も無かった。後に彼が独占する技能賞を初めて受賞する1949年1月場所では、優勝候補の一人だった大関・佐賀ノ花勝巳に立ち合いで思い切り当たり、前褌を引いて右から強烈な出し投げを打って勝利したことが評価され、これが受賞理由となった。 1951年1月場所では前頭2枚目で初日から7連敗を喫したが、その後は8連勝して8勝7敗と勝ち越した。翌場所で小結に復帰以降は三役に定着し、大関・横綱へ駆け上がっていく。 1952年5月場所は10勝5敗で通算8回目の技能賞を獲得、協会から特別表彰を受けた。同年9月場所では場所中に高熱を発したが14勝1敗で初の幕内最高優勝を遂げ、感涙に暮れた。場所後に大関に昇進するが、この時の体重は98kgしかなかった。 新大関として迎えた1953年1月場所は、横綱・照國萬藏が3日目に現役引退を表明、残る横綱・大関6人中3人が途中休場という大荒れの場所だったが、12日目まで1敗で優勝を争い、終盤に3連敗したものの11勝4敗、優勝の大関・鏡里喜代治(14勝1敗)と共に上位陣の面目を保った。続く同年3月場所では14勝1敗で大関として初優勝を果たすと、同年5月場所でも13勝2敗で全勝の平幕・時津山仁一、14勝1敗で準優勝の横綱・吉葉山潤之輔に次ぐ3位の星を挙げ、その軽量から短命大関で終わってしまうのではないかと不安視する声を一掃し、次の横綱候補と目されるようになる。しかしこの直後、巡業先で一晩ハメを外したために体調を崩し、その後の3場所を8勝、9勝、9勝と低迷、春日野からは「一晩の不摂生が半年祟る」と慢心を叱責された。
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