手荒な再建策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 07:18 UTC 版)
「フランク・ロレンツォ」の記事における「手荒な再建策」の解説
1981年、ロレンツォは業績の悪化していたコンチネンタル航空の買収に着手した。当初、コンチネンタル航空では労使ともにロレンツォの買収について警戒していたが、その抵抗は内外から崩され、同年11月に同社は買収された。翌1982年にテキサス・インターナショナル航空と合併、さらに1983年には連邦倒産法第11章(チャプター11)を適用することで一旦コンチネンタル航空を破産させて従業員を全員解雇し、大幅な賃金カットによる雇用条件を受け入れた従業員だけを再雇用した。破産による運航停止から運航再開までわずか3日という、手荒な方法であったが、その後の航空会社再建の戦略の1つとして注目されることになる。 しかし、この強引な方法は、社員の反発を買った。ロレンツォに買収された後のコンチネンタル航空社員の間では、「拳銃に2発の弾があり、目の前にサダム・フセインとカダフィ大佐とロレンツォの3人がいたら、誰を生かすか?」「決まってる。2発ともロレンツォに撃ち込む」というジョークが交わされていたという。 1985年には再びTWAの買収に着手するが、コンチネンタル航空の事例を重く見た労働組合の激しい抵抗のため、TWAの買収は失敗に終わった。また、同時期にはフロンティア航空の買収にも着手するが、フロンティア航空側ではロレンツォに買収されることに対してだけは抵抗し、同社はピープル・エキスプレスへ買収されることになった。 1986年2月には、低運賃航空会社として再建するべくイースタン航空を買収。この買収は、イースタン航空の経営陣による決定で、コンチネンタル航空の再生の手腕に期待したという。この時期に、ニューヨーク・エアの運航していたシャトル便はパンナムに売却された。同年6月には経営の悪化したピープル・エキスプレスを買収したが、傘下にあったフロンティア航空も同時に買収されたため、結局フロンティア航空の買収に対する抵抗は意味がなくなってしまったことになる。1987年2月1日にはピープル・エキスプレスとニューヨーク・エアをコンチネンタル航空に合併させた。 しかし、イースタン航空の再建は社長(労使協調路線を取っていた人物であった)や労働組合との対立となり、なかなか進まなかった。労働組合との対立が激化すると、ロレンツォは身の危険を感じ、自社機に乗った際に、運ばれてきた清涼飲料水の栓が開いていた場合は、絶対に口にしなかったという。1989年3月9日にはイースタン航空はチャプター11適用となった。ロレンツォはイースタン航空の路線・機材・施設などを売却したが、1989年の赤字額は8億ドルにも及び、ロレンツォでも手の施しようがなくなっている状態であった。 1990年8月、ロレンツォは「テキサス・エア・コーポレーション」から「コンチネンタル・エアライン・ホールディング」となった持ち株会社の売却を発表、航空業界の第一線からは身を引くことになった。
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