扇谷上杉氏との攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:53 UTC 版)
北条氏綱関係地図 小田原城 後北条氏a 興国寺城 韮山城 津久井城 玉縄城 三崎城 武田氏a 今川氏a 江戸城 小机城 蕨城 岩付城 河越城 扇谷上杉氏a 毛呂城 松山城 山内上杉氏a 葛西城 古河城 古河公方a 小弓城 小弓公方a 真里谷城 真里谷武田氏a 第一次国府台合戦 里見氏a 永正16年(1519年)氏綱は宗瑞の政策を継承して房総半島に出兵して小弓公方・足利義明と真里谷武田氏を支援したが、その後の数年間は軍事行動を控えていた。これは、武蔵国を巡って伊勢氏(後北条氏)と対立関係にあった扇谷上杉家が共に足利義明を支持する立場となったために、両者が和睦の状況にあったからとみられている。 大永3年(1523年)までに武蔵国南西部の久良岐郡(横浜市の西部に相当)一帯を経略し、さらに武蔵国西部・南部の国人を服属させている。また、前述のようにこの計略は同年と推測される北条改称と連動した政策であったとする説もある。危機感を持った扇谷上杉朝興は山内上杉家と和睦をして氏綱に対抗しようとするが、大永4年(1524年)正月に氏綱は武蔵に攻め込んで高輪原の戦いで扇谷勢を撃破すると太田資高を寝返らせて江戸城を攻略する。江戸城を攻略後すぐに追撃を開始して、板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取る。2月2日に太田資頼の寝返りにより、岩付城を攻撃して落城させ太田備中守(太田資頼の兄)を討ち取った。続いて蕨城も攻略し、また、毛呂城(山根城)城主の毛呂太郎・岡本将監が北条方に属したため、毛呂~石戸間を手中におさめ敵の松山城~河越城間の遮断に成功する。 これに対して扇谷上杉朝興は山内上杉憲房の支援を受けて態勢を立て直すと、古河公方足利高基と和睦し、さらに甲斐守護武田信虎とも結んで反撃を開始した。6月18日に太田資頼が朝興に帰参してしまい。7月20日には、朝興からの要請により武田信虎が武蔵国まで出張り岩付城を攻め落とした。これを背景として、太田資頼は岩付城に復帰することができた。氏綱は朝興と和睦を結び、毛呂城引き渡しを余儀なくされた。 翌大永5年(1525年)2月に氏綱は和睦を破って岩付城を奪還するが、朝興は山内上杉憲房・憲寛父子との連携のもとで逆襲を行い、大永5年から大永6年(1526年)にかけて武蔵の諸城を奪い返し、相模国玉縄城にまで迫った。朝興は関東管領山内上杉家、古河公方、甲斐の武田信虎のみならず、宗瑞時代には後北条氏と友好関係にあった上総国の真里谷武田氏、小弓公方そして安房国の里見氏とも手を結んで包囲網を形成し、氏綱は四面楚歌に陥った。同年5月には里見氏の軍勢が鎌倉を襲撃し、鶴岡八幡宮が焼失している。ただし、大永7年(1527年)には氏綱と小弓公方・足利義明の間で和睦が成立して、真里谷武田氏や里見氏も氏綱と停戦しており、この段階で房総諸勢力は包囲網から脱落していたとする見方も出されている。享禄3年(1530年)に嫡男・氏康が朝興方の軍勢と多摩川河原の小沢原で戦い、これに大勝したものの、享禄4年(1531年)には朝興に岩付城を奪回されている。
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