扇田神明社の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 03:02 UTC 版)
盛岡藩は将兵を鹿角地区に集め、戦闘準備を行った。8月9日(書面は8月8日)に戦書を久保田藩側に提出、白石同盟の脱退を名分に戦闘を始めることを告げた。戦闘は十二所から始まり、十二所の兵は潰走し後退した。 盛岡藩兵は11日大館南方の扇田村に進駐、家老楢山佐渡も隊列を組み進駐した。扇田村の住民は盛岡藩兵を酒肴で歓待した。ところがこれは罠で、酒肴で酔いつぶれた所を、十二所の兵が襲おうとした計略であった。ところが、楢山佐渡ら将兵は住民との打ち合わせの場所にはおらず扇田神明社前に移動し駐屯していた。12日十二所勢は午前4時に盛岡藩兵を攻撃し、双方に死傷者が続出する。 8月13日、盛岡藩は一時将兵を久保田領内から引き上げた。小康状態に陥ったので、大館城城代の佐竹大和は将兵の再配置を行う。11日には、弘前藩の対馬寛右衛門の銃士隊も庄内との戦いを中止し、大館に集合していた。しかし、銃は旧式銃がほとんどで新式のゲベロ銃がわずか5挺、兵力の質も量も盛岡側と比較して貧弱なのは明らかであった。8月14日には弘前藩からの鉄砲100挺、弾薬1万発の陣中見舞いが届いた。 楢山佐渡の再攻撃は20日に始まった。楢山佐渡自ら指揮をして、日没までに一気に扇田村まで攻め寄せた。12日朝の攻撃は、扇田村住民の手引きがあると断定し、盛岡藩軍は扇田村に火をつけ400戸のうちわずか6戸を残して灰燼と化した。このとき、女軍夫の山城ミヨが流れ弾に当たり戦死している。のちに、山城は靖国神社に祀られた初の女性となった。扇田村の敗戦を受けて、久保田側は大館城近辺に将兵を集め部隊の再編を行い、大館城を防衛しようとした。 詳細は「十二所の戦い」を参照
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