戸籍法との衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
仏民法典の冒頭主要部分は、日本では戸籍法、ドイツでは身分証書法による別法律で制定されており、『民法決議』も、後世の目から見るときは民法草案というより戸籍法草案の性格が濃厚であった。 ところが、この身分証書は、教会の身分統制の独占に対するアンチテーゼを背景に、個人を基本単位に出生・婚姻・死亡を別々に登録するもので、日本では歴史的根拠が無く、実務上も不便であった。 1871年(明治4年)4月、民部省(民部大輔大木喬任、断行派)によって作成された戸籍法が公布される。これは、「戸」すなわち現実の世帯を基本単位として、住所地を同じくする人々の身分関係を一括して記載するものである。 日本固有法である戸主権は、江戸時代以前の旧慣や民法典制定ではなく、この戸籍法で初めて成立したと解する論者もいる(福島、利谷)。 講座派マルクス主義からは、戸籍法の制定は「封建的政治を全国的規模で継承せんとしたもの」と評されるが(平野)、あくまで全国の戸口調査、浮浪人取締による治安の回復・維持が目的だったとの批判がある(松本)。
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