恤救規則以前の救貧政策
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恤救規則の諸規定には、先行する通達や規定があった。個々の要請・許可のやりとりや個別問題に関する通達、府県の一般行政に関する規則など、明治初年に断片的に積み重ねられた諸規定をまとめたものが恤救規則と言える。 先行規定としては、まず慶応4年(1868年)6月22日の太政官から府県への通達がある。洪水・兵火による窮民の救済は府県に任せるというもので、内容・程度・種類・方法などの規定なく、地方官に委ねられた。 続いて明治2年(1869年)2月5日、府県施政順序という府県がとるべき政策を列挙した規則の中に、「窮民を救うこと」の一条がある。貧民を区分して救助方法を変えること、その費用に公費(国費)を使わないことが規定された。 この年7月27日に出された府県奉職規則では、「無告の窮民」は速やかに救助しなければならないとして、その権限を定めた。罹災者に対する応急的救助は地方官が専決し、事後に民部省に届け出る。継続的救助は民部省に伺を出し、民部省が決する。これが恤救規則にも引き継がれる手続き上の原則となった。 12月9日には、災害救助に関する細則が出され、15日以内、男1日3合、女1日2合の米の給付が地方官の権限として認められることになった。この日数と米の量が後々までの基準となる。 明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県後、11月4日に地方官専断を禁止する太政官布告が出され、土木・賞典・窮民救助の専断が禁じられた。こうしたことを地方官が行なうと、規則が壊れ政体・財政に影響すると理由を付けた。地方独自の救済が実施されると人民の感謝が個々の地方官に向かい、政府・天皇の仁慈が不十分と見られかねないというわけである。 続いて明治4年11月27日に県治条例が出された。県治条例は中央政府である主務の省と、地方官にあたる参事の間で権限が分けるものである。この条例で、中央の権限は済貧恤窮の方法を設けること、地方の権限は定額の救助のこととされた。定額とは具体的には窮民一時救助規則に定められた範囲内という意味で、その規則には明治2年以来の米15日分のほか、家屋料3から5両と農具の貸し渡しが地方の専決事項として定められていた。
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