怡渓宗悦の流れ
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怡渓宗悦(1644年 - 1714年)は大徳寺253世に就いたあと、江戸に帰って広尾祥雲寺や品川東海寺にあった高僧である。藤林宗源の没後、江戸において『石州流三百ヶ条註解』を著して、石州流を諸国へ伝播する中心的な役割を果たした。この流れを汲む流派を一般に怡渓派と称する。初代伊佐幸琢(1684年 - 1745年)は怡渓宗悦より皆伝を受けた高弟で、以後5代にわたって幕府の御数寄屋頭となり怡渓派を伝える。 越後新発田藩では、4代藩主溝口重雄が怡渓宗悦に茶の湯を学んで以来怡渓派で、8代藩主直養の頃からは伊佐家の代々から伝授を受けた「御茶道」がいた。特に10代藩主直諒は茶道に傾倒し、奥伝を受けて自ら越後怡渓派を名乗るほどであった。このとき奥伝を伝えたのが阿部休巴(1748年 - 1853年)で、この系譜にあるのが現在の茶道石州流怡渓会となっている。 会津藩は寛永20年(1643年)に保科正之が入封してから石州流であるが、孫の3代藩主松平正容が家臣の飯束林清(1677年 - 1751年)を怡渓宗悦に入門させ、伝授を得て会津怡渓派と称するようになった。幕末以降は武家出身で薬種商を営んでいた森川家が民間への伝承の中心となっており、千少庵によると伝えられる茶室「麟閣」を移築して兵火から免れさせるなどしている。会津怡渓派は、現在は片桐宗家の門に加わっている。 幕末期、4代伊佐幸琢は5代幸琢が若いうちに他界したため、5代幸琢は阿部休巴の門人であった山本宗雄(1818年 - 1880年)から皆伝を受けている。その山本宗雄は維新後に怡渓流を名乗って茶湯教授を始めている。また維新後、伊佐家が5代限りで茶道と無縁になった際に、門人だった袖山宗脩(1853年 - 1932年)によって継承され石州流伊佐派と称している。現在の家元は磯野宗琢。
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