怡渓宗悦の流れとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 怡渓宗悦の流れの意味・解説 

怡渓宗悦の流れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 10:14 UTC 版)

石州流」の記事における「怡渓宗悦の流れ」の解説

怡渓宗悦1644年 - 1714年)は大徳寺253世に就いたあと、江戸帰って広尾祥雲寺品川東海寺にあった高僧である。藤林宗源没後江戸において『石州流三百ヶ条註解』を著して石州流諸国伝播する中心的な役割果たした。この流れを汲む流派一般に怡渓派と称する初代伊佐幸琢(1684年 - 1745年)は怡渓宗悦より皆伝受けた高弟で、以後5代わたって幕府御数屋頭となり怡渓派を伝える。 越後新発田藩では、4代藩主溝口重雄怡渓宗悦茶の湯学んで以来怡渓派で、8代藩主直養の頃からは伊佐家の代々から伝授受けた御茶道」がいた。特に10代藩主直諒は茶道傾倒し奥伝受けて自ら越後怡渓派を名乗るほどであった。このとき奥伝伝えたのが阿部休巴(1748年 - 1853年)で、この系譜にあるのが現在の茶道石州流怡渓会となっている。 会津藩寛永20年1643年)に保科正之が入封してから石州流であるが、孫の3代藩主松平正容家臣の飯束林清1677年 - 1751年)を怡渓宗悦入門させ、伝授得て会津怡渓派と称するようになった幕末以降武家出身薬種商営んでいた森川家民間への伝承中心となっており、千少庵によると伝えられる茶室「麟閣」を移築し兵火から免れさせるなどしている。会津怡渓派は、現在は片桐宗家の門に加わっている。 幕末期4代伊佐幸琢は5代幸琢が若いうちに他界したため、5代幸琢は阿部休巴の門人であった山本宗雄(1818年 - 1880年)から皆伝受けている。その山本宗雄は維新後に怡渓流名乗って茶湯教授始めている。また維新後伊佐家が5代限り茶道無縁になった際に、門人だった袖山宗脩(1853年 - 1932年)によって継承され石州流伊佐派称している。現在の家元磯野宗琢。

※この「怡渓宗悦の流れ」の解説は、「石州流」の解説の一部です。
「怡渓宗悦の流れ」を含む「石州流」の記事については、「石州流」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「怡渓宗悦の流れ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「怡渓宗悦の流れ」の関連用語

1
8% |||||

怡渓宗悦の流れのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



怡渓宗悦の流れのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの石州流 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS