徽音殿の井戸とは? わかりやすく解説

徽音殿の井戸

作者田中芳樹

収載図書黄土の虹―チャイナ・ストーリーズ 黄土の虹
出版社祥伝社
刊行年月2000.2

収載図書黒竜潭異聞
出版社実業之日本社
刊行年月2000.10

収載図書黒竜潭異聞
出版社祥伝社
刊行年月2008.10
シリーズ名祥伝社文庫


徽音殿の井戸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 02:31 UTC 版)

黒竜潭異聞」の記事における「徽音殿の井戸」の解説

(きおんでんのいど) 時代南北朝・宋 あらすじ 皇宮の奥にある徽音殿。かつて袁皇后住まいであった場所だが、皇后怨み抱きながら亡くなって以来閉鎖されているこの徽音殿で、皇后幽霊が出ると専らの噂だ。 皇后の死から10年皇后息子である皇太子劉劭りゅうしょう)は父帝文帝を弑殺しようと計画練っていた。母の復讐という訳ではなく、皇太子という地位に飽いたから、という理由であった。 宋の三代皇帝文帝内政に力を注ぎ、世は安定していった(元嘉の治)。しかし、即位から27年文帝軍事行動積極的に取り始める。北方魏軍侵攻しようと言うのだ。ほとんどの臣下北伐反対する中、重臣一人・江湛(こうたん)が北伐支持する皇太子心の底で、父の失敗期待し、やがてその願いどおりに惨めな結果終わった失敗責任を負わせ江湛を斬るべきと皇太子主張するが、文帝責任自分にあるとしてこれを固辞する。それから約2年皇太子と江湛の対立はより深さ増していた。将来憂慮する文帝を外に、江湛は副宰相徐湛之じょたんし)を巻き込み皇太子廃立企んでいた。目標同じくする2人は、皇太子の姉・東陽公主巫蠱(ふこ)の術師厳道育(げんどういく)を匿っていた事実利用し皇太子廃位文帝進言する。しかし、廃位の詔が下るより早く皇太子謀反決行する果たして、皇太子未来は……。 関連項目 宋書(二凶伝)

※この「徽音殿の井戸」の解説は、「黒竜潭異聞」の解説の一部です。
「徽音殿の井戸」を含む「黒竜潭異聞」の記事については、「黒竜潭異聞」の概要を参照ください。

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