復興における借金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 09:23 UTC 版)
この被害における復興の為に、那須四方介と菊池七郎左衛門が営中普請奉行に任命される。また、大火の原因の一つである小板葺きの屋根は、城内の新築家屋から分限に応じて瓦葺きに変更、城外もそれに準ずるようにとの達しが藩主・相良頼基より出された。 また、この大火により、復興の資金として一万五千両の借金が必要となった。その為、隣接する熊本藩細川家に対して勘定奉行である犬童権左衛門が使者となり、同年10月に藩主の細川韶邦へ申し入れたが、細川家では相州警備、武器整備等に経費が掛かり、手を尽くしたが都合悪しとして断られている。 借財が捗々しくない事から、江戸に出府途上にあった家老の渋谷三郎左衛門が、大阪の近江屋半右衛門に対し一万両の借金を申し入れたところ、これを承諾された。 残る五千両を都合する為、犬童権左衛門は渋谷練助を伴い、薩摩藩島津家へと出向き重役の小松清廉・桂久武と面談、その即断により残る五千両の借財が叶った。その後、薩摩藩への返済の米輸送の為に元治元年(1864年)1月から大畑 - 吉田間に新道が作られ、この道を「薩摩街道」と呼ぶようになった(現在は殆ど使用されず)。またこれ以後、人吉藩と薩摩藩の関係は親密となり、島津家を通じて琉球大平布10匹、畳表100枚の見舞い(池田家からも見舞い)があり、更に島津家から大工、左官、木挽き、瓦屋、桶屋などが多数派遣され、復興支援が手伝われた。
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