御陵衛士の粛清とは? わかりやすく解説

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御陵衛士の粛清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 17:22 UTC 版)

油小路事件」の記事における「御陵衛士の粛清」の解説

新選組油小路七条の辻に伊東遺骸放置し、その周り伏せ遺体引き取りにきた同志まとめて粛清ようとした遺骸引き取りにきた同志は、藤堂平助篠原泰之進鈴木三樹三郎服部武雄毛内有之助加納道之助・富山弥兵衛の7名であった。この待ち伏せによって、新選組結盟以来生え抜き隊士で元八番組長務めた藤堂平助のほかに、服部武雄毛内有之助の3名が討死した。 偶然、現場通りかかった桑名藩士小山正武談話史談速記録)によると、新選組隊士4050名が御陵衛士7名を取り囲み、まず藤堂討たれ次に毛内が討たれ最後に服部奮戦した及ばず討死したということである。 藤堂に関しては、近藤試衛館以来同志である永倉新八原田左之助が逃がそうと試みたものの、近藤心情を酌めなかった他の隊士に斬られた。 毛内有之助遺体五体バラバラ無惨だったらしい(『鳥取藩慶応丁卯筆記』)。 服部武雄は隊内でも相当な二刀流使い手として鳴らしていたため、服部孤軍奮闘鬼気迫るものがあったという。民家を背にして激戦し、新選組にも多数負傷者出したが、最後服部大刀折れたスキ狙って原田左之助繰り出し一斉に斬りかかって絶命した。 鈴木加納富山逃げ延び、翌19日午前4時過ぎ、今出川薩摩藩邸にかくまわれた。その後油小路から逃げ延び篠原と、不在だった阿部内海今出川薩摩藩邸に合流しその後伏見薩摩藩邸に移された。 伊東らの遺体はしばらく放置してあったが、光縁寺埋葬された。その後慶応4年1868年2月鈴木三樹三郎らによって泉涌寺塔頭戒光寺改葬された。

※この「御陵衛士の粛清」の解説は、「油小路事件」の解説の一部です。
「御陵衛士の粛清」を含む「油小路事件」の記事については、「油小路事件」の概要を参照ください。

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