御陵衛士時代
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慶応3年3月(1867年4月)、伊東一派と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新選組を離脱。これより当初の上洛の動機であった尊王攘夷の志士への道をようやく歩み出すことになる。 御陵衛士時代の主だった平助の活動としては、 美濃に出張し、美濃屈指の侠客水野弥太郎 を懐柔し、水野配下の農兵数百を組織し奇兵隊のような大軍隊にする計画を立案し、さらに金銭面の援助も得る約束を取り交わした。 伊東、斎藤、鈴木三樹三郎らとの連名で長州への寛大な処分を求める建白書を朝廷と幕府に提出した。 等が挙げられる。 なお、御陵衛士側に間者として潜入していた斎藤からこれらの報告を受けた近藤は激怒し、御陵衛士の殲滅を決意したという。 また、衛士たちは英語の習得やロケット製造方法のような火薬研究などの研鑽に努めていた。 篠原泰之進(秦林親)の覚書には、『ぐうとないと「こんばんハ』『ぎふみい「私に被下(くだされ)』『せんきゅう「難有(ありがとう)』『あいらぶきゆう「私あなたをすきです』といった内容があり、平助も同様に勉学に励んでいたものとみられる。
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