御城将棋と家元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:29 UTC 版)
17世紀初頭、1612年(慶長17年)ごろ、幕府は将棋と囲碁の達人であった大橋宗桂(大橋姓は没後)・加納算砂(本因坊算砂)らに俸禄(宗桂は50石5人扶持を賜わっている)を支給することを決定し、将棋(なお、初期の将棋指したちは中将棋も得意としていた)は、囲碁とともに、江戸時代の公認となった。宗桂と算砂は将棋でも囲碁でも達人であったが、やがてそれぞれの得意分野(宗桂は将棋、算砂は囲碁)に特化していき、彼らの後継者は、それぞれ将棋所・碁所を名乗るようになった。 宗桂の後継者である大橋家・大橋分家・伊藤家の3家は、将棋の家元となり、そのうち最強の者が名人を称した。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人の地位は世襲のものであったが、その権威を保つためには高い棋力が求められた(たとえば、家元の地位に不満を持つ在野の強豪からの挑戦をたびたび受け、尽く退けている)ため、門下生の中で棋力の高い者を養子にして家を継がせ、名人にすることも多かった。 寛永年間(1630年ごろ)には家元3家の将棋指しが将軍御前で対局する「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に1度、11月17日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(11月17日)が「将棋の日」となっている。 江戸時代中期までの将棋指しは、指し将棋だけでなく、詰将棋の能力も競い合った。特に伊藤家の伊藤看寿の作品である『将棋図巧』は現在でも最高峰の作品として知られている(なお、伊藤看寿は早逝したため存命中に名人とならなかったが、没後に名人位を贈られた)。名人襲位の際には、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのが慣例であった。 江戸時代後期には、近代将棋の父と呼ばれる大橋宗英が名人となり、現代につながるさまざまな戦法を開発した。さらに、大橋家の門下生であった天野宗歩は、当時並ぶ者のいない最強の棋士として知られ、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。名人位が期待されたものの素行不良のために大橋家の養子となれなかった宗歩は、家元3家とは独立して活動するようになり、関西で多数の弟子を育成した。 現在のプロ棋士はほぼ全員が江戸時代の将棋家元の弟子筋にあたり、将棋家元は現代将棋界の基礎となっている。なお、現在では伊藤家に連なる一門が多数であるが、関西を中心に天野宗歩の系譜に属する棋士も多い。江戸時代の棋譜は「日本将棋大系」にまとめられている。
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