後期19世紀 - 1920:起源
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「パレスチナ問題」の記事における「後期19世紀 - 1920:起源」の解説
「シオニズム」、「バルフォア宣言」、「フサイン=マクマホン協定」、および「三枚舌外交」も参照 第一次世界大戦において連合国側のイギリスは同盟国側の一角であるオスマン帝国に対し側面から攻撃を加える意図の下、トルコの統治下にあったアラブ人(イエフディ(現地ユダヤ人)やキリスト教徒も含む)たちに対してオスマン帝国への武装蜂起を呼びかけた。その際この対価として1915年10月にフサイン=マクマホン協定を結びこの地域の独立を認めた。 他方、膨大な戦費を必要としていたイギリスはユダヤ人豪商ロスチャイルド家に対して資金の援助を求めていた。この頃、世界各地に広がっているユダヤ人の中でも、ヨーロッパでは改宗圧力を含め差別が厳しかったため、シオンに還ろうという運動(初期シオニズム)が19世紀末以降盛り上がりを見せていた。そこでイギリスはアーサー・バルフォア外相を通じ、1917年にユダヤ人国家の建設を支持する書簡をだし、ロスチャイルド家からの資金援助を得ることに成功した(バルフォア宣言)。 しかしイギリスは同じ連合国であったフランス、ロシアとの間でも大戦後の中東地域の分割を協議しており、本来の狙いはこの地域に将来にわたって影響力を確保することであった(サイクス=ピコ協定)。 こうしたイギリスの「三枚舌外交」はロシア革命が起こり、ウラジーミル・レーニンらによって外交秘密文書がすべて公表されるに至り公のものとなった。 第一次世界大戦でアラブ軍・ユダヤ軍は共にイギリス軍の一員としてオスマン帝国と対決し、現在のヨルダンを含む「パレスチナ」はイギリスの委任統治領となった。
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