当時の気候
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)
元禄・天明・天保の飢饉の時期は小氷期にあたったが、宝暦の飢饉の際はそうではなかった。しかし、置賜地方の記録では、 宝暦4年暮れから翌5年正月にかけて、雪は少ないが寒さが厳しかった。 5年3月から4月まで寒さが続き、草花の育ちも悪い状態となった。 田植え時には少々の日和はあったが、5月半ばから降り続いた雨が長雨となり、夏中やむことはなかった。 この年の夏は暑い日は少なく、袷を着て過ごした。7月末(旧暦)には吾妻山に雪が降り、8月中も雨が降り続いたため、しばしば洪水が発生し、大きな被害が出た。稲穂は一面実入りの無い青立ちの状態となった。 とある。最上地方や村山地方でもほぼ同様だったが、庄内地方は4月中旬から5月中旬まで日照りが続いて旱魃の被害があった。夏は低温で冷害となったという。麦・米ともに大凶作で、飢餓や熱病の流行が民衆を苦しめた。『豊年瑞相談』によれば、10月には雪が降り積もり、不熟な稲が雪の下に埋れてしまって、刈り取ることもできなくなり、寒中になると餓死するものが続出するようになった。 宝暦6年には前年の影響で凶作となった地域が多く、翌7年の前半も低温・大雨・洪水による被害が発生した。 建部清庵の『民間備荒録』によれば、宝暦5年は冷害の年であり、5月中旬から低温が続き、8月下旬まで雨が降り続いた。5日から7日間雨が止んでも初冬のような寒気が続き、田に入ると手足が凍えるほど冷えていて、稲の生育は遅れ、穂は出ても実は入っていなかったという。 『青森県史』に引用されている『天明卯辰簗』では宝暦5年早春から4月まではことのほか暖かかったため、農作物の育成は格別良いように見えたが、5月下旬から冬のような寒さとなり、日が照ることはなく、田畑の様子はよくなかったという。 出羽国新庄領のことが書かれた『豊年瑞相談』にも宝暦5年は寒さがひどく、雨が降り続き、6月1日にも綿入れを着るほどだったとある。 死者の葬礼のための野辺送りをする際、当時の慣例であった「まくら飯だんご」を持って行くと、流民たちが殺到して、大勢で奪いあいになった。物乞いの者があまりにも多いので、施し物をする者もなくなり、餓死者が出て、一般民衆は栄養不良になって疫癘が流行した。
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