強制栽培制度の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 16:23 UTC 版)
「オランダ領東インド」の記事における「強制栽培制度の時代」の解説
1820年代から1830年代にかけて、オランダは深刻な財政危機に直面した。フランスの七月革命の影響等で1830年にベルギーが分離独立したため、オランダ本国は有力な工業地帯を失った。また、東インドでは、1825年にジャワ島のマタラム王家のディポヌゴロをリーダーとする反乱(ジャワ戦争)が起こり、同時期にスマトラ島でも、イスラーム改革派(パドリ派)と反パドリ派の対立に端を発するパドリ戦争が起こったため、軍事費が増大した。 こうしたオランダ本国の財政状態を改善するため、東インドに導入されたのが東インド総督ファン・デン・ボッシュによる「栽培制度」(日本では「強制栽培制度」と訳されることが多い)である。これは、現地住民に指定の農作物を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げるというものであった。指定栽培されたのは、コーヒー、サトウキビ、藍(インディゴ)、茶、タバコなど、国際市場で有望な農産物である。東インド植民地政府は、農産物をヨーロッパなどへ転売して莫大な利益をあげた。 この制度はオランダ本国の財政赤字を解消しただけでなく、産業革命期に入りつつあったオランダのインフラ整備にも大きく貢献した。しかし、同時に、オランダ経済の東インドへの依存度を高めることにもなった。 この制度は、栽培を強制された住民には大きな負担となった。収穫された農作物は、植民地政府の指定する安い価格で強制的に買い上げられた。さらに、従来稲作をおこなってきた水田で、アイやサトウキビなどの商業作物の栽培が強制されたため、凶作が重なると深刻な飢饉を招くこともあり、餓死者も出た。一方、この制度の施行期間中にジャワ島の人口がほぼ倍増したことを指摘して、暗黒面だけを強調するのは妥当ではないとする意見もある。
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