引揚船時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 05:14 UTC 版)
8月15日に終戦を迎えて間もない9月1日、「高砂丸」は東京港を出港してメレヨン島に急行。餓死寸前に陥っていたメレヨン島の陸軍独立混成第五〇旅団を収容し、10月2日に別府に帰着した。その後は第二復員省の復員輸送艦に指定され、上海方面からの引揚輸送に任じる。1949年(昭和24年)からは、ナホトカからのシベリア抑留兵士輸送に転じ、ナホトカと舞鶴との間を往復した。その第一陣2,030名を輸送した際、船内ではいわゆる「洗脳集団」が貴賓室などに陣取って毎朝インターナショナルを高唱し、そうでない者は船倉の隅に押しやられていた。1952年(昭和27年)からの中華人民共和国からの引揚輸送にも「興安丸」(東洋郵船、7,079トン)とともに従事した。なお、特設病院船としては昭和20年10月5日付で除籍され、1946年(昭和21年)8月20日付で解傭された。 戦後の大阪商船は、「高砂丸」をどう起用するか持て余していたと見る向きがある。台湾が終戦により日本の領土でなくなったこともあったが、同じく戦争を生き延びた「氷川丸」が国内航路、次いでヨーロッパ航路、ついには古巣のシアトル航路に返り咲いたのとは対照的であった。1951年(昭和26年)頃には移民船として南米航路への転用が計画されていたが、石炭焚であったことと国会で計画の予算が削減されたことがネックとなり、転用は実現しなかった。その後、一連の引揚輸送に目処がついた後に因島に係留され、1956年(昭和31年)3月23日に解体のため名村造船所に売却、大阪堺港にて解体された。
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