庶人に落とされる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 00:42 UTC 版)
永和10年(354年)1月、殷浩は幾度も敗北を繰り返し、兵糧や物資を使い切ってしまったので、官民から甚だ恨まれる所となった。桓温はこれに乗じて殷浩の罷免を上奏すると、上奏は認められ。殷浩は官爵を剥奪されて庶人とされ、東陽郡信安県に移された。これにより内外の大権は全て桓温の手中に入り、桓温の北伐を止められる者は誰もいなくなった。 殷浩は失脚して以降も恨み言を口にはせず、顔色や言動にも変化は無かった。また、談論・吟詠を止めず、家人に対しても悲しむ素振りを見せる事は無かった。ただ、いつも空に向けて「咄咄怪事(極めて不可解である)」の4字を書いていたという。 その後しばらくして、桓温は考えを改めて郗超へ「浩(殷浩)には人望があり、弁も立つ。令僕として用いれば、儀刑・百揆を統べるには充分であろう。朝廷はその才の使い方を間違えているのだ」と述べ、殷浩を尚書令に任じようと思い、殷浩へ書を送った。殷浩はこれを喜んで受諾の返事を出そうとした。だが、返書を出そうという時になり、手紙に書き間違いがあるのを心配し、封緘を数十回も開け閉めして中身を確認したため、最後には中の手紙を入れ忘れたまま送ってしまった。これにより桓温は大いに怒り、官途への復帰は断たれてしまう事となった。 永和12年(356年)、信安県において死去した。 後に殷浩が改葬される事となった折、かつてその臣下であった顧悦は上疏して、殷浩の名誉回復を訴えた。この要求は叶えられ、詔により殷浩は生前の官位を追贈された。 子の殷涓もまた名声を博していたが、武陵王司馬晞や庾倩(庾冰の子)らとともに反乱を計画したと桓温に誣告され、殺害された。
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