帰還後の亡命生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:04 UTC 版)
「ウンベルト・ノビレ」の記事における「帰還後の亡命生活」の解説
一般に先述の批判から公職追放を受けたと考えられているノビレであるが、実際には帰還したイタリアでは生存者の帰還を素直に喜ぶ声が多く、大歓声で迎えられるなど責任問題については話題に上らなかったという。 ファシスト政権も各国政府に謝意を表明しつつ、ノビレ隊の帰還を歓迎する姿勢を見せている。にも関わらずノビレが失脚したのは計画に対するファシスト政権への不満を表明した為であり、政治的失脚という側面が強いと見られている。ともかく、ムッソリーニと反目したノビレはイタリア空軍と袂を分かつ事になった。1929年、ノビレの責任を強調する政府の調査報告に納得できないとして准将の職務を辞し、空軍を退官した。 1931年、ソヴィエト連邦の招致を受けて国外に家族と移住する。ソ連でも飛行船に関する空軍技官として待遇され、ソヴィエト空軍の飛行船開発において大きな関与を持った。1934年、ソビエト空軍としては最も成功した飛行船であり、ツェッペリン号の滞空時間記録を破ったSSSR-V6 オソアヴィアヒムを設計している。1939年、アメリカ合衆国からの招致を受けてルイス大学で教鞭を取った。同年の内に第二次世界大戦が起きるとアメリカ市民権は取得しなかったが、そのままアメリカ滞在を継続する。 1942年5月に一旦ローマを経由してスペインに移動、翌年に連合軍がローマを占領すると正式に帰国した。1945年、イタリア空軍はノビレに対する批判は公平ではなかったとして名誉回復を決定した。ノビレは退役時の空軍少将としての身分を再び与えられて空軍復帰を果たし、次いで中将に名誉昇進した。晩年は母校であるナポリ大学の教授として過ごし、1978年7月30日に93歳で死没した。
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