師弟配流とは? わかりやすく解説

師弟配流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:56 UTC 版)

親鸞」の記事における「師弟配流」の解説

事件経緯承元の法難参照元久2年1205年)、興福寺は九箇条過失(「興福寺奏状」)を挙げ朝廷専修念仏停止ちょうじ)を訴える。 建永2年1207年2月後鳥羽上皇怒り触れ専修念仏停止ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房安楽房遵西の4名を死罪法然ならびに親鸞を含む7名の弟子流罪処せられる。 この時、法然親鸞らは僧籍剥奪される法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名与えられる法然土佐国番田へ、親鸞越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。 親鸞は「善信」の名を俗名使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃしんらん) と名告リ、非僧非俗ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、「改名について」も参照。) 承元5年1211年3月3日、(栗澤房)明信が誕生する建暦元年1211年11月17日流罪より5年後岡崎中納言範光を通じて勅免宣旨順徳天皇より下る。 同月法然入洛許可下りる親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯越後から京都へ戻ることが出来なかった。 建暦2年1212年1月25日法然京都80をもって入滅する赦免後親鸞動向については二説ある。 1つは、親鸞京都帰らず越後とどまったとする説。その理由として、師との再会がもはや叶わない知ったことや、子供幼かったことが挙げられる対して、一旦帰洛した後に関東赴いたとする説。これは、真宗佛光寺派真宗興正派中興である了源著した『算頭録』に「親鸞聖人配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ 帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ」と記されていることに基づく。しかしこのことについて真宗興正派は、伝承位置付けていて、史実として直截証明する証拠何もないとしている 。

※この「師弟配流」の解説は、「親鸞」の解説の一部です。
「師弟配流」を含む「親鸞」の記事については、「親鸞」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「師弟配流」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「師弟配流」の関連用語

1
2% |||||

師弟配流のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



師弟配流のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの親鸞 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS