師弟関係・逆破門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 08:02 UTC 版)
加藤は奨励会入り以降、南口繁一九段門下であったが、南口が1995年に死去した後の1998年に将棋連盟に申し出て剱持松二八段門下となった。現在では公式に加藤の師匠は剱持となっている。 加藤はこの理由について「私が奨励会に入る時の師弟関係は親が勝手に決めた名目上のことで、私は師匠から一切世話にならなかった。私の師弟関係は無効であるにも関わらず、あたかも関係があったかのように扱われて、不名誉な思いをしてきた。また妻や妻の親戚の人達に長年にわたり不名誉で不快な思いをさせてきた。」と述べている。一方の剱持は、加藤と以前から懇意にしており、また剱持の師匠である荒巻三之九段(1993年に死去)と家族ぐるみの付き合いであった。なお、剱持の方が加藤より6歳年上ではあるが、四段昇段(プロ入り)は加藤の方が2年早く、棋士としては、弟子(加藤)が師匠(剱持)より先輩となっている。 この一件に関して河口俊彦は、(かつての将棋界の師弟関係は内弟子が一般的であったことを踏まえて)、日本がまだ貧しかった昭和20、30年代の将棋界では、師匠が内弟子の衣食住の面倒を見るのは大変なことであり、内弟子が稼いだ稽古料を師匠が召し上げるのが当たり前であったが、このことに不満をもった棋士も多かったのは事実と述べている。しかし、同時に河口は南口が内弟子の加藤をあまりにも大事にするので、逆に南口の家族が不平を言っていたという挿話を伝え、加藤が南口に恨みを持つような経緯があったとは考えにくい、と評する。実際、南口の人柄に関しては特にネガティブな逸話はなく、むしろ逆に弟子の森信雄が村山聖を弟子にしようとして当時の関西棋界の実力者であった灘蓮照九段と対立した時に病身を押して仲裁したという彼の人柄を示すエピソードがある。
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