市場の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 03:05 UTC 版)
近江町市場形成以前は各地にあった市が、元禄3年(1690年)の大火をきっかけとして、享保6年(1721年)に近江町に集められたのが始まりとされている。 近江町には明治時代まで惣構があり、その外側に青果を扱う「青草辻市場」、その内側に鮮魚を扱う「近江町市場」があった。 江戸時代には加賀藩から許可を受けた棟取(とうどり)などの世話役から鑑札を受けた業者のみが商売を許されていた。明治時代に営業が自由化されると鑑札は廃止された。惣構も取り除かれ、さらに1904年(明治37年)6月3日の大火の後に直線道路が付けられ近江町の一帯は整備された。同年8月16日に青果業者53人が石川県の許可を得て市場を開設したが、その標柱には「官許金澤青草辻市場」と書かれていた。大正時代には、市場の路面が金沢市内のアスファルト舗装第一号となった。太平洋戦争前には美術展や演芸(浄瑠璃、万歳)も催された。 太平洋戦争直後にも闇市を取り締まるため一時的に鑑札制度が再導入された。 昭和30年代から平成まで建っていた標柱には「近江町」の文字も入り「官許金澤青草辻近江町市場」と書かれていた。
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