工業の時代と帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:58 UTC 版)
「エルリングハウゼン」の記事における「工業の時代と帝国」の解説
エルリングハウゼンの住民は、山の斜面という不利な立地であることから使える土地がほとんどなく、初めは主にアマ栽培とリンネル織りで生計を立てなければならなかった。当時、アムト・エルリングハウゼンにはおよそ 300台の織機があった。この地の織物は特に、上品で漂白されたリンネル生地として有名で、行商人(「ライネンホプサー」と呼ばれた)によって全ドイツや近隣諸国で販売された。ライネンホプサーは、何ヶ月も旅を続けることもしばしばであった。手織りリンネルの最盛期は1825年頃に一旦終焉した。イギリスから機械織りの布地がドイツに持ち込まれたのである。エルリングハウゼンの手織り生地は、当初はその高い品質により競争力を保持し続けたが、やがて注文が無くなり、多くの織物職人の家族は飢えや貧困に苦しめられ、さらにチフスが流行した。こうしたリンネル織り産業の危機によりエルリングハウゼンの人口は、1,710人から 1,510人に減少した。多くの家族がアメリカ合衆国へ移住していった。その後ビーレフェルトのカール・ダーフィト・ヴェーバーによりエルリングハウゼンのリンネル織りは新たな隆盛期を迎えた。手織りのリンネルはイギリス機械織り製品の 8倍の価格であったが、その優れた品質により顧客を満足させられることを商人が理解したのであった。1904年に大規模な機械織り工場が設立され、エルリングハウゼンとその近隣から約 1,000人が職に就いた。 主要産業のリンネル産業の他に、タバコ製造業にも言及する必要がある。1870年頃、エルリングハウゼンのデトモルダー通りに 4つのタバコ工場があり、120人の労働者が働いていた。エルリングハウゼンにおける社会民主主義の萌芽は、1861年にはすでに 1つの統合されていたタバコ製造労働者の組織を起源とする。エルリングハウゼンが社会民主主義運動の火種となることを官庁は心配し、シェトマールの役人を対応に当たらせた。
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