工業の後退と再開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:26 UTC 版)
1959年に制定された工場立地法と「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」(工業等制限法)により、一定基準を超える工場の新増設が制限された。川崎市では丘陵地の西部を除く全域に適用され、大規模工場の新増設は外部に用地を求めて移転せざるを得なくなった。1972年の工業再配置促進法では、工業集積の高い地域から低い地域へ工業を誘導しようとするもので、川崎は工場移転を促進する側に置かれた。これらの公害防止の法整備にともなう市外への工場移転は、同時に川崎の工業地域の空洞化、工業都市川崎の体質を改変する結果となった。 従業員100人以上の事業所(工場)の数は、1970年の243工場から1995年121工場に減退した。工業従業員数は1969年の225,868人を最高に減少し、1998年には110230人、以後は10万人を下回った。 1990年までの川崎の工業製品出荷額は、東京23区、大阪市に次いで全国3位を占めていたが、その後低調となり、横浜市、名古屋市を下回った。1970年頃からは市外への工業の分散、移転が盛んになり、工業生産から研究開発事業への転換を図る企業が増加してきた。 市内各所の工場跡地は、工業地として継続使用された他、住宅地や学校に転用された。工場跡地のうち駅付近の市街地については、商用利用と再開発に利用された。1989年、幸区の日立製作所跡地には、超高層ビル2棟を主体とした新川崎三井ビルディングと住宅団地が建設された。川崎駅西口の東芝工場跡地は2001年に一切の施設を整理し、大規模開発により横浜製糖跡地を含めた場所には、ラゾーナ川崎をはじめ、高層ビルが建てられた。高津区池貝鉄工跡地はかながわサイエンスパークに代わった。
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