工具の発達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
建築物の様相には工具の制約も大きい。法隆寺の時代から少なくとも室町時代初期までの工具はそれほど大きくは変わっていない。画像aa0は『春日権現記絵』にある建築現場である。太い木材を縦に切る鋸はまだ無い。柱や板は画像aa0の右側のように割って作る。「打割製材」と云う。それを画像aa0左下のように釿(ちょうな)で削る。平カンナも無い。仕上げは画像aa2のような槍鉋(やりがんな)で削る。鋸は木の葉型の小さいものしか無く、画像aa0の上の方では舟肘木の加工に用いている。製材に使えるようなものではない。寝殿造はそうした制約の下で建てられてきた。 書院造の時代までにその工具が大きく変わっている。製材に使用する大鋸(おが)は文安元年(1444)成立の『下学集』に出てくるので、15世紀初頭には出現していたと思われる。画像aa4は同じく15世紀の「三十二番職人歌合」に描かれた大鋸である。二人掛かりで引いている。この登場により「打割製材」が「挽割製材」に変わり、薄い板や細い角材が容易に作れるようになる。また檜や杉など素直に割りやすい木だけでなく、松やケヤキなども製材出来るようになった。15世紀とはちょうど丸柱が角柱に変わりだす頃である。先に応仁の乱の後に建てられた文明17年(1485)の南都仏地院は柱が全て五寸角の角柱とあったが、その前に既に大鋸は登場している。 カンナというと長方形の木に刃が差し込んである平カンナが今のイメージだが、それが確認されるのは大鋸よりはだいぶ後で、厳島神社の棟札が槍カンナから平カンナ仕上げに変わったのは天正5年(1577)である。そして慶長・元和(1596-1623)頃の『京洛風俗図屏風』には建具職人が障子を作る姿が描かれており、その道具に平カンナが描かれている。
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