川崎重工退社まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 02:39 UTC 版)
東京の大森で生まれ育つ。 小学校の時に第二次世界大戦が終結、日本は敗戦を迎えた。その時にアメリカ人の豊かさを目の当たりにし、日本が国際社会で生きてゆくためには英語が必須と考え、英会話の学習を始めた。中学・高等学校の授業だけでなく、英会話教室に通ったり、米軍施設内の店舗でのアルバイトを行い、英会話の習得に努めた。19歳の時に3歳年上の女性と結婚し、父親となるが、大学に通う合間に働いて生活費を稼ぐという苦しい生活を送った。しかし、その間も英語の勉強は続けていた。 1958年に川崎重工に入社、英会話能力を見込まれて、通訳や英語のマニュアルの翻訳などに携わる。1961年には資材部に異動、1964年には日本航空機製造へ出向、1965年にはYS-11のプロダクトサポート担当としてフィリピンのフィリピナス・オリエント航空に派遣された。1967年から1974年まではピードモント航空へ派遣され、YS-11のプロダクトサポートを担当した。
※この「川崎重工退社まで」の解説は、「鶴田国昭」の解説の一部です。
「川崎重工退社まで」を含む「鶴田国昭」の記事については、「鶴田国昭」の概要を参照ください。
- 川崎重工退社までのページへのリンク