川崎美術館と長春閣美術収集家としての正蔵とは? わかりやすく解説

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川崎美術館と長春閣・美術収集家としての正蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 05:55 UTC 版)

川崎正蔵」の記事における「川崎美術館と長春閣・美術収集家としての正蔵」の解説

明治29年1896年)に第一線引退してからの川崎は、造船事業家よりも美術収集家として社会的に有名であった家屋庭園美術品川崎唯一の趣味であり、仕事他家訪問するごとに、家屋庭園、さらに床の間書画置物装飾品に至るまで深い注意を払っていた。 明治維新の後、日本の伝統的な美術品欧米美術愛好者のために輸出されることが多くなり、多く名品日本見られなくなる状態が出現しつつあった。川崎日本の美術品が国外へ流出することを恐れ明治11年築地造船所経営着手した頃から美術品収集し始め生涯にわたって2000余点の名品を買い集めた。そして明治18年から着工した神戸布引本邸内に美術館を建て、収集した美術品一般に公開したその中でも、中国の元時代名画足利将軍家織田信長石山本願寺伝来した顔輝作「寒山拾得二幅対」や、春日光画千手千眼観音」(いずれも後に国宝指定された)は特に世間で有名であった。しかし、彼の収集した美術品多くは、昭和2年金融恐慌川崎家が危機陥った時に売却された。 川崎単なる美術収集家にとどまらず、自ら美術品の製作も行っている。明代万暦七宝匹敵できる七宝焼完成させることを志し尾張七宝焼の後継者であった佐太郎一族明治30年神戸呼びよせた。彼らを布引山七宝焼工場設けて研究させ、3年後には見事な七宝焼の製作に成功した明治33年にはパリ万国博覧会大花瓶と大香炉出品し、名誉大賞獲得した川崎その後七宝名品多く製作したが、1品も売却せず、「川崎宝玉七宝」と名づけ美術愛好家贈っていた。このパリ万国博覧会出席するために、川崎一族7人を引き連れてヨーロッパ巡遊し、イギリス造船業諸国美術工芸見てまわった。そしてこれが最後社会的活動であったその後体調崩し、健康回復第一目標として、全国各地別荘をめぐる「富豪隠居」を行っていた。

※この「川崎美術館と長春閣・美術収集家としての正蔵」の解説は、「川崎正蔵」の解説の一部です。
「川崎美術館と長春閣・美術収集家としての正蔵」を含む「川崎正蔵」の記事については、「川崎正蔵」の概要を参照ください。

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