峰翁祖一文献の疑問点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 22:28 UTC 版)
以上の資料を総合して峰翁禅師の伝記を考えると、禅師は海蔵寺記では鎌倉幕府の執権北条時宗の同母弟であるという。すなわち時宗の生母は毛利蔵人の女で北条時頼の妾であった。時宗は生まれて間もなく嫡母北条氏(北条重時の娘)に養育せられ嫡子となった。妾であった毛利氏は後北条義宗に嫁して数子を挙げたが、その一人が峰翁禅師であったという。駿州の産というのは毛利蔵人の住であろうか、なお、同記では禅師の没年を98歳としている。逆算して文応元年の生まれとなり、北条時宗より10歳年少となる。若し高僧伝の説の84歳とすると、23歳の差が出来て同母弟とするは不自然となる。ただ98歳という高齢で月菴宗光当時32歳の壮者を薫陶していたということは何となく不自然な気もする。とにかく海蔵寺記の説は今少し傍証の研究が必要である。 海蔵寺は福岡県遠賀郡岡垣町の海岸内浦浜に面する山中にあるもので、峰翁禅師が崇福寺で大応国師について勤業中、この地に修禅場として一寺を開いたのが海蔵寺であるという。 崇福寺は九州禅の道場として仁治2年円爾弁円によって開基された。文永9年南浦紹明がこれに入寺して以来三十余年、九州に於ける禅風の拳揚につとめ、下野国の雲巌寺の高峰顕日と共に東西二甘露門と称せられた。峰翁禅師もここに於て入門したのであった。寺は福岡県大宰府の地である。 峰翁禅師は崇福寺、海蔵寺、に住して後、大圓寺を開山したが、その他に勢州桑名城下に少林寺を創立したと(妙心寺派教務本所)言い、また美濃国武儀郡の富野に大禅寺、伊予の風早に大通寺等を開創し、尾張の妙興寺の一世に入寺したと(妙興寺記録)伝えている。これらの寺がどういう因縁で開創されたか詳しいことは分らない。妙興寺は峰翁の門下の心王性守が二世として入寺し、玉林と共に大応禅師の語録を編纂している等、因縁は特に深いが、妙興寺の落成した貞治4年には、峰翁禅師は既に没後であったし、50歳も年長であつた峰翁禅師が滅宗禅師の寺へ入寺するというのは不自然であるから、おそらく峰翁の門下心王性守が二世として妙興寺へ入寺した時、師を奉じて一世としたのではあるまいか。心王は応安5年開山の滅宗禅師と大応語録上梓に参畫している。次に峰翁禅師の門下に南堂宗薫、的伝宗冑が崇福寺に出世しているが、この人の関係伝記が不明である。
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