就航と破船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/29 20:50 UTC 版)
天明6年(1786年)11月に幕府は三国丸の就航を各地に通達しており、また運航は長崎会所が行っている(なお、この頃には意次は既に失脚していた)。翌年4月16日(1787年6月2日)、当時日本海を探検していたフランス海軍のラ・ペルーズ率いる艦隊が、処女航海を終え俵物を積み長崎へ向かう三国丸に遭遇し、詳細なスケッチを残している。 三国丸は数年間運用すれば傭船を運用するよりも経費が削減できるはずだったが、就航から3年後の天明8年(1788年)9月18日に函館を出港後、暴風に遭遇し、10月2日に佐渡沖まで流された際に舵を破損し、帆柱も切り倒したため、乗組員は艀で飛島へ避難した。無人となった三国丸は出羽国赤石浜(秋田県にかほ市金浦赤石)に漂着して破船となっている。 なお石井は三国丸建造の理由として、弁才船では不可能であった年2回の往復を行わせるためとしている。しかし安達は冬期に航海せずとも弁才船で年2回の往復が行われたとして、冬期の航海は2回めの往復時は俵物の昆布が新物故に収穫が6月土用になり、十分な量を積み込むには航海が晩秋にずれ込んだためとしている。三国丸の建造は荒れる冬期の日本海を安全に航海するためであったが、冬の日本海には三国丸も屈することになった。早期の破船により経費も回収できなかった幕府は、以後は三国丸と同型船の建造は行ず、従来の傭船による俵物輸送へ回帰した。 ただし、寛政11年(1799年)に建造され、翌年7月に破船した神風丸初めとするロシア南下に応じて幕府が建造した船の中には、帆装こそ和式(ただし帆柱は4本から5本の例がある)だが、船体はジャンクに水押、上部構造物は総矢倉という形式があり、安達はこれらを三国丸に影響されたものとしている。なお、三国丸を建造した尼崎屋では、幕府に命じられた高田屋嘉兵衛の注文で総矢倉の弁才船(似関船)が建造された。更に、三国丸のジブとスパンカーの組み合わせは明治時代以降の合の子船で復活をしている。
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