少数民族地域の文革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:24 UTC 版)
周縁とされた辺境地帯の文革に関する研究は世界各国で盛んとなり、「周縁の文化大革命から文化大革命のフロンティアへ」変わりつつあるのが目下の状況である。政府公文書も含む1次資料による研究成果として、文革の被害者が最も多かったのは広西チワン族自治区と内モンゴル自治区であり、広西では「階級の敵」とされた者が共産党幹部らに食される「革命的食人」が横行、内モンゴルでは中国人によるモンゴル人虐殺が発生した事実が明らかにされた。 ウイグル人とモンゴル人は、近代以降、宗主国の中国からの独立を獲得すべく日本やロシアの協力を得ようとし、両民族は中国からの独立か、ソ連邦内の自治共和国になろうとしたが、それらはヤルタ協定により葬られ、民族自決を目指したウイグル人とモンゴル人の民族主義者達は、1957年の反右派闘争と文革で全員粛清され、中国政府は文革を利用して対日歴史の清算と対ソ連との国際政治を勝ち抜くという戦略を練っていた。 南モンゴル出身の楊海英は、「私が生まれた内モンゴルや新疆ウイグル、チベットなどでの文革は『虐殺』だった。私の周囲でもどんどん罪のない人が死んでいった 」「弾圧は現在も続いており、我々にとっての文革は終わっていない」として、少数民族地域で何が起こったのかは総括されず、「新疆ウイグルでは同化政策が強まり、ウイグル語で教育を受けることを禁止され、中国語を強要」されるなど抑圧が強まり、文革は少数民族地域では民族間紛争として発生したことから「虐殺のような悲劇が再び起こらないようにしなければいけない」「過去の大虐殺を総括しない限り、現在の民族問題の解決にもつながらない」と述べている。
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